秋田の殉教者

1624年7月18日、現在の秋田市において、32名のキリシタンが殉教しました。これを皮切りに、同年だけで100人以上のキリシタンが秋田藩にて殉教しています。2024年に殉教400年を迎えるにあたり、私たちは殉教者の信仰の証に感謝し、その生き方に倣って参りましょう。以下に秋田教会が100周年記念誌に掲載した、秋田の殉教者についての記事を転載いたします。

 

秋田のキリシタン

(秋田カトリック教会創立百周年記念誌 1―4ページより、若干の編集の上転載)

「一、きりしたん衆三十二人火あぶり、内二十一人男十一人女
 一、天気よし」(『政景日記』より)

江戸時代の初期、寛永元年(一六二四)七月十八日、久保田城外の刑場にて三十二人のキリシタンが火あぶりの刑に処せられた。河合喜右衛門ら二十一人の武士とその母、妻子たちで、彼らは最後まで改宗を拒み、あえて殉教の道を選んだという。喜右衛門の第二子喜太郎も役人の救いの手を振り切って、父や兄と共に十三歳の命を捧げた。その日は、城下の久保田や近郊から集った見物人で刑場前の丘は黒山の人であったと記される。引かれてきた三十二人は刑場につくと一人ずつ柱にしばられ、まもなく柱のそばにマキが積まれ、そして火がつけられていった。三十二人の信徒たちは声を合わせて主の名を呼んだ。「われらを憐れみ給え。主よわれらを憐れみ給え…………」彼らの祈りは周囲にひびき渡った。しかし間もなくその叫びも燃えさかる火中に消えていったのである。その夜から三晩の間、その上空に不思議な光が輝くのを近郊のミナ(湊か?)の住民は確かに見たという。

これはヨーロッパ側の資料『一六二四年イエズス会日本年表』の伝えるこの日の模様の大要である。そして、三十二人が処刑された刑場は、「久保田より三里距(へだた)るヤナイの地」と記録されているが、「ヤナイの地」とは一体どこの地域をさすのか残念ながらはっきりしない。今の秋田市郊外八橋、帝石付近にあった草生津(くそうづ)刑場という研究者もいるが断定できないふしもある。いずれにせよ、秋田藩におけるキリシタン迫害は一六一七年頃から始まっているが、その程度はまだゆるやかであった。大規模な迫害の手がのびたのが前述一六二四年の寛永年代に入ってからだったのである。

秋田藩のキリシタン史についてはまだ不明な点も多く、今後の研究がまたれる所であるが、武藤鉄城氏や今村義孝氏などの研究に基づいて、その大まかな経緯を述べると———

一五四九年フラシンシスコ・ザビエルによって初めて日本に伝えられたキリスト教は、三十年後には信徒10万、五十年後には70万にものぼったと言われる。信長をはじめ戦国大名たちは貿易の利を伴うキリスト教伝道に好意的であったからである。しかし一五八七(天正十五)年、秀吉は突如禁教令を出した。迫害の始まりである。その後支配体制を固める秀忠によって弾圧は強化されていった。長崎をはじめとする迫害の嵐が吹きまくったが、東北地方の場合、中央で迫害が厳しくなる時期、即ち慶長年間キリシタンが徴妙なる繁栄を示したのである。秋田のキリシタン事始めは織田信雄(信長の二男)の天瀬川追放、大友義統(よしむね)の秋田追放の十六世紀末から十七世紀初頭にかけてのことである。その後慶長七、八年にペードロ人見は仙北で二百人に洗礼を授けている。城下の上級武士にも教えが広まり、城主の側室西の丸殿の入信も伝えられている。そして中央の迫害を逃れた信徒たちが続々と流れてくるようになり、それに伴い宣教師たちもやってきた。東北ではまだ組織的弾圧が加えられていなかったためである。県内の鉱山、ことに院内銀山は、諸国人の出入りが多く、また当時の鉱山の治外法権的性格がかくれみのとなり、多くの信徒が集った。東北に秘かに潜入して巡回した宣教師としてはヤソ会神父ジェロニモ・アンゼリス、ディエゴ・カルバリオの名が知られている。そのうちキリシタンの信仰集団コンフラリヤも出来た。久保田の会長はジュアン河合喜右衛門、院内ではルイス大津三郎右衛門とジュアン岩見三太夫が会長で、信徒の団結を固めていく。

一六一〇(元和六)年、教皇パウロ五世が日本信徒へ慰問状をよこしたとがある。これに対して東北など五地方の信徒代表がしたためた返書が、今ローマの教皇庁図書館に残っている。それは一六二一(元和七)年八月十四日の日付で

「秋田仙北にて義宣十八万石——領内にて教法ひろまり——」

とあり、サインした十七名のうち、五番目に「しゅわん河合喜右衛門尉」としるしている。河合は慶長十九年(一六一四)大阪冬の陣に出陣した武将であった。

当時教会をもち、東北キリシタンの中心となっていたのは仙台と秋田であった。秋田藩主佐竹義宣(よしのぶ)は、はじめ鉱山へ流入してきたキリシタンに対し寛大であった。むしろ鉱山発展の重要な労働力とも考え、性急な処刑と追放は控えよ、とさえ指示したこともある。しかし幕府の強い圧力を受けて、一六二四(寛永元)年、キリシタン取締り奉行梅津憲忠を通し、領内のキリシタンに組織的な弾圧を振りかざすことになった。そして同年、前述の処刑、秋田キリシタンの大殉教がおこったのである。

河合喜右衛門ら三十二人を火あぶりにした八日後の七月二十六日、さらに五十人の首を斬った(二十五人は藩士、二十五人は院内銀山のキリシタン)。こえて八月十六日、善知鳥(うとう)(千畑村)の十三人を横手で斬首、九月十四日寺沢(雄勝町)の者十四人を久保田で斬首、同月十八日薄井(雄物川町)の者四人を斬首。たびたび秋田に潜入した宣教師アンゼリスは江戸で火あぶり(一六二三年)、カルバリオも仙台で水責めの刑で殉教している(一六二四年)。

殉教はその後も湊、草生津などで続いているが、仮に改宗したとしても、信徒を出した家に対しては五代あとまで監視するという、厳しい、かつ執ような弾圧が敷かれた。万冶二年(一六五九)の「きりしたん調申立北条安房殿へ遺候ひかゑ」によると

「久保田川はた町
大工 長左衛門
此者拷問仕致得共、元和七年ニ吉利支丹ころび申、禅宗ニ罷成候由申ニ付、寛永廿年極月廿日、籠ヨリ出シ、右ノ町人共ニ預置候」

とある。年齢87。泉州堺の生まれとしるしているから、元(もと)は院内銀山で働いていた人だろうか。キリンシタン大工長左衛門は、川反の何丁目に居たのかどうかは不明だが、元和元年に転宗してからも20年の入牢生活を続け、寛永20年になってようやく町家預りとなった。このような例は枚挙にいとまがないのである。

毎年、年中行事のようにキリシタン調べがなされ、人々はキリシタンにあらずの証明「寺判帳」を受け、旅行には「寺請け証文」という身分証明書を持ち歩いた。キリシタン即(そく)「邪宗」なりとする考えがこうして庶民の骨の髄まで浸透していく歴史が続いたのである。従って江戸時代の長い鎖国の扉が開かれて、キリスト教布教が再開し、市民権を得るまでの間、「ヤソ、ヤソ」という言葉に含まれた悔蔑と恐れの心情は容易にぬぐい切れるものではなかったに違いない。

冒頭の『梅津政景日記』は秋田キリシタンの殉教を伝える日本側唯一の記録で、梅津政景は、キリシタン取締奉行梅津憲忠の弟であり、この日記は私的なものであるが、その二行足らずの短い文は、その簡潔さゆえに重い余韻をもって我々にせまってくる。特に「天気よし」の一文は政景の意図を異にして、キリシタン殉教の悲惨さを浮き上がらせるに、これ以上の表現はあるまいという思いがしてならない。