皆様、主のご降誕おめでとうございます。幼子イエスの恵みと祝福が豊かにありますように。
新潟教会では夜8時からミサが行われ、コロナ禍が始まって以来最も多くの方々が参加されました。初めて教会に来た方もおられ、心のこもった良いミサになったと思います。準備を担当してくださった皆様、ありがとうございました。以下、説教の抜粋です。
イエスは小さく、弱いものとして生まれました。それは、いくつかの意味で理解できます。
- まず、肉体的に弱いものとして生まれました。全能の神である方が、自分では何もできない、人に助けてもらわなければ食べることも、寝返りを打つこともできず、生きることができない弱い者です。
- 次に、社会的な立場です。イエスの養父ヨゼフと母マリアは、エルサレムから北に120キロほど行ったところにある、ガリラヤ湖の近く、ナザレという小さな片田舎の町に住んでおり、ヨゼフは大工でした。辺境の、肉体労働者の息子として生まれたイエスは、律法学者などのエリートからは見下されるような社会的立場にいました。
- そして、イエスは、生まれたとき、宿に泊まることができませんでした。宿屋がいっぱいだったとしても、臨月の女性が野宿するというのは、周りの人々からのやさしさ、思いやりというものが無かったのではないか、と考えてしまいます。
皆さん、この世界には、このイエスのような人がたくさんいますね。物質的、肉体的に小さく、弱い立場にいる、今日食べるものにも困っている人々、空襲警報にせかされ学校の教室からシェルターに避難するウクライナの子供たち、テントに暮らし、銃弾におびえるガザの人々。/社会的に弱い立場に置かれている、移民、特に在留許可が様々な理由で無い人々。様々な背景のマイノリティの人々。/そして、人々から顧みられず、愛を感じることのない高齢者や子供たち。受刑者の方々や、「自業自得だ」と周りから言われるような人たち。
イエスは、このような人たちと同じ境遇で、生まれてきたんです。だからこそ、闇の中の光なのです。どうしようもない闇の中でも。弱く、小さく、貧しく、たとえだれからも顧みられなくても、神がこれらの人々を自分のことのように大切にしてくださっている。だからこそ、神の独り子の誕生は、揺るぐことのない希望なのです。
皆さんは、救い主の誕生をどのように自分の心の中で、生活の中で、受け止めますか。
神の独り子がこの世界に人として生まれてくださったという出来事は、救いというものが、何かおとぎ話の不思議な、すべてがうまくいっている世界ではなく、当たり前の、問題だらけの生活の中に示されたということです。年の瀬の忙しい日常の中に、たとえば買い物に行ったり、大掃除をしたり、料理をしたり、仕事を片付けたり、年賀状を書いたりする中で、確かにキリストは「私はあなたのもとに生まれてきたよ」「私はあなたと共にいるよ」と言って、神の愛を注いでおられるのです。
さて、今年、カトリック教会は聖なる年、聖年を祝っています。この世界のすべての存在、すなわち神と、人と、自然が本来あるべき関係に立ち戻ろう、という年です。神に背を向けているならば、神に立ち戻り、人と仲たがいしていたり、人のものを搾取していたらそれを返し、自然を破壊していたら保全しようという年です。教皇フランシスコは、この年に「希望の巡礼者」というテーマを付け、「聖年が、すべての人にとって、希望を取り戻す機会となりますように」と呼びかけました。
希望、という言葉を聞くと、例えば希望する学校に入学するために、塾に通って勉強し、成績を上げることで希望を叶える、というようなことを言います。つまり、希望を叶えるために、いくつかの条件を満たしていく。その条件がそろえば希望に手が届く。そんな風に考えます。
しかし、キリスト者にとっての希望とは、そうやって手に入れるものではありません。神から一方的に与えられるものです。「希望はまさしく愛から生まれ、十字架上で刺し貫かれたイエスの聖心から湧き出る愛がその根本です」と教皇フランシスコは教えています。教皇が、「希望は決して欺かない」と繰り返し教えたのは、希望が自分の努力によって手に入れるものではなく、神が一方的に注いでくださる愛だからです。この愛は、どんなに私たちが神に背こうとも、止まることはないのです。この神の愛がはっきりと示されたのが、イエスの誕生であり、十字架上の死と復活です。今年の聖年のロゴには、十字架の形をした船の錨が描かれています。これは、希望に錨を下ろそうという呼びかけです。神の愛にしっかりと錨を下ろしている限り、希望を見失うことは決してない。自分の能力や計画に錨を下ろすのではなく、自分の弱さ、足りなさを補って余りある、神の愛に錨を下ろしている限り、どんな荒波にも恐れることはないのです。この、聖年のクリスマスにあたって私たちは、私たちのために生まれ、私たちと共にいてくださるイエスにしっかりと錨を下ろし、希望を新たにしたいと思います。
最後に、羊飼いたちについてお話ししたいと思います。天使たちのお告げを受け、羊飼いたちは生まれたばかりのイエスを探し、見つけ出し、神をあがめ、賛美しました。そして、見たことを人々に知らせました。
私たちは、この羊飼いに学びたいと思います。羊飼いは、神についての知識も、財産も、社会的な影響力もなく、身なりも貧しいままイエスを探しに行きました。そして、自分が見たこと、聞いたことを人々に知らせました。私たちもまた、自分の日常生活の中で、イエスが大切にする人々に出会いに行きましょう。暗闇の中で、社会の周辺に追いやられているような人々を大切にしましょう。そして、ろうそくの光を受け取り、それを隣の人に差し出したように、神が来てくださった喜び、愛される喜びを、自分なりの形で人々に伝えていきましょう。希望に錨を下ろして、巡礼の旅を続けていきましょう。














