2025年新潟教会主の降誕日中のミサ

改めまして、主のご降誕おめでとうございます。新潟教会では10時から主の降誕日中のミサが行われ、主任司祭の田中神父、協力司祭の町田神父、成井の3人で共同司式が行われました。悪天候が心配されましたが、ミサが終わるまで何とか小ぶりの雨でおさまり、ご高齢の信徒の方々も参加することができました。神に感謝。ミサの後はカトリックセンターで昼食会が行われ、おいしいハヤシライスがふるまわれました。ありがとうございます!以下説教の抜粋です。

成井大介司教

新潟教区の宣教司牧方針は、交わり、宣教、参加を三本の柱としていますが、受肉はこの「交わり」そのものです。そのことについて、一緒に考えてみたいと思います。

神が人となるというのは、神と人との間にある境界線を越えて、神が人になるということですね。神として、全能の存在として、見えないところで、わかりづらい仕方で、人を愛し、救うのではなく、神ご自身が人となって、だれにでも見える、わかる存在になって、人々とともにいて、人の弱さを身にまとい、死んで復活することで救われるということです。どうしてそんなことをされたのでしょうか。それは、神が人との交わりのうちに人々を救うことを望まれたからです。

交わるということは、自分の領域から相手の領域に入るということです。互いの間にある境界線を越えずに、自分の側から、自分の立場から相手を眺めたり、聞いたり、思いめぐらしたりするのではなく、相手の目線で見、相手の立場で聞き、相手の弱さで思いめぐらすことです。

神は、人を救うにあたって、人の目線で、人の耳で、人の心で人々と交わられたのです。
パウロは、ヘブライ人への手紙の中で次のように書いています。

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。ヘブライ人への手紙 4章15節

大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。ヘブライ人への手紙 5章2節

神が人となられる、ということは、神がわたしたち人間の弱さをすべて身にまとい、知ってくださり、自分事として受け止めたうえで、愛といつくしみのうちに、救ってくださるということなんですね。

イエスが、人間として様々なものを見たり感じたりするだけでなく、イエスは人々から、神ではなく、人として見られます。当たり前のことですが、これは大切なことです。
例えば、イエスが徴税人と食事を共にしたとき、イエスは、人々が徴税人を見下し、忌み嫌う、その同じ目で見られたでしょう。イエスが姦通の現場でとらえられた女性と最後までともにいたとき、人々はイエスを罪びとを見る目で見たでしょう。

神が人となられたということは、ただ、神が人として、その弱さを感じ、生きただけではなく、人の中でも特に周りから見下されている人と同じ立場に立ち、同じ蔑みの目で見られ、それらの人々との交わりの中で生きたということなのです。

また、人は、自然の恵みなしに生きることはできません。イエスはたびたび、神がこの世界の様々ないのちを豊かに養ってくださっていることについて教えています。
野の花、空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなた方に対しては、なおさらではないか、と弟子たちに語り、この世界のすべてが神の恵みによって生かされ、養われていることを教えています。神が人となられたということは、この、自然との命の交わりの中に入られたということでもあります。

そして、イエスは私たちをご自分と、父である神との交わりへと導きます。
ヨハネの福音で、イエスはゲッセマネの園へ向かう前に弟子たちに対して、後で聖霊が送られることを告げたのち、次のように話します。

かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。ヨハネによる福音書 14章20節

神の独り子の受肉によって、キリストが私たちのうちに来てくださる。私たちもキリストのうちにいる。そして、キリストを通して、わたしたちも父である神のうちにいることになるのです。

ヨハネの福音はまた、次のようにイエスの祈りを伝えています。

父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。21:ヨハネによる福音書 17章21節

キリストとの交わり、父である神との交わりは、キリストを通してすべての人と交わることでもあるのです。

つまり、神が人となる、受肉という出来事は、神と人との関係、神を通した、人と人との関係、神が恵みを注がれる、人と自然との関係が、神の目に望ましいものにされたということなんですね。そして、そのようなことが起こったのは、ただ、神が私たちを愛しておられるからです。神はそうせずにはいられないのです。どうしても近くに、人々の間に、私たちの間にいたくて仕方ないのです。交わりとは、愛のなせるわざです。