2025年通常聖年閉幕ミサ

本日、素晴らしい好天の中、新潟教会にて新潟教区における聖年閉幕ミサが行われました。朝9:30からの通常の主日のミサのスケジュールで行われましたが、教区内の様々な教会、遠くは秋田から駆け付けた方もおられ、聖堂はいっぱいになりました。新潟教区では、聖年の間一年間かけて、教区100周年のときに教区中の教会を巡った十字架が再びリレーされ、今日また新潟教会に戻ってきました。希望は十字架からと教皇フランシスコは教えましたが、希望のリレーとして意義深いことであったと思います。

聖年は終わりますが、希望に錨を下ろしてともに歩む巡礼はつづきます。交わり、宣教、参加の柱を大切に、歩みを続けてまいりましょう。以下、説教です。

成井大介司教

皆さん、この聖年の一年、どのような希望を受けてきましたか。どのように、誰に、希望を渡してきましたか。少し、沈黙のうちに振り返ってみてください。

聖年を振り返ってみたいと思います。
昨年12月29日、この新潟教会聖堂で聖年開幕ミサが行われ、新潟教区における聖年が始まりました。ミサの初めに、聖年巡礼のシンボルである行列を司祭団が代表して行いました。この行列には、新潟教区100周年で教区中の教会を巡った十字架が掲げられ、その後一年かけて十字架リレーが行われ、小教区、奉献生活者の会共同体のすべてに100周年の十字架が回されました。これは、私たちがともに歩む共同体であること、希望のメッセージを他者に伝える者であることのシンボルであり、意義深いことだったのではないかと思います。

多くの教会共同体が、指定教会に巡礼に行きました。共同体によっては、近隣教会と合同の巡礼を行った教会もあります。巡礼は、全免償をいただき、神のいつくしみを深く受け止める機会です。同時に巡礼という旅は、人生の意味を掘り下げ、人々や自然、地域の文化との出会いから神の存在を身近なものとして感じていく、とても豊かな取り組みです。

10月には山形教会で教区信徒大会が行われました。宣教司牧方針の取り組みについて学びあう大会でしたが、同時に皆が巡礼者として山形に集った、教区全体の巡礼でもあったと思います。

世界を見てみると、復活の主日に、息切れしながら、絞り出すような声でローマと全世界に祝福を与えられた翌日、教皇フランシスコが息を引き取られました。第16回シノドス総会最終文書を出し、聖年を開始し、復活の主日に祝福を車いすから与えるその姿は、肉体的には弱いものでしたが、神の愛を身をもって証しする強い意志と、永遠の命への希望にあふれるものでした。この聖年のテーマを希望の巡礼者と定めた教皇フランシスコは、まさに、ご自身の生きざまで、希望を示されたと私は感じています。

新しい教皇の選挙は、この日本においても大きなニュースになりました。メディアは「フランシスコの改革路線」を引き継ぐ人か、それとも「伝統主義者か」というような視点で報道していましたが、そんなことは関係なく、教会は聖霊の導きに忠実に従って進むのだという姿勢を表すかのように、ロバート・フランシス・プレヴォスト枢機卿が選ばれ、レオ14世を名乗られました。レオ14世教皇の、選出直後のあいさつは「平和が皆さんと共に」で、その一言で教会全体と世界に大きな希望を与えてくれました。

さて、聖年の開始を告げる大勅書、『希望は欺かない』は、聖年で私たちが大切にすべきポイントを示しています。改めて振り返ってみましょう。

まず、教皇フランシスコは、次のようにご自分の望みを伝えています。

すべての人にとって聖年が、救いの「門」である主イエス(ヨハネ10・7、9参照)との、生き生きとした個人的な出会いの時となりますように。

いかがでしょうか。皆さん、この聖年を通して、主イエスとの生き生きとした出会いを重ねてこられましたか。

ことあるごとに繰り返しお話ししてきましたが、聖年はレビ記25章に書かれているヨベルの年に基づく行事で、このヨベルの年には畑を休ませたり、人に売った土地が返却されたり、同胞のしもべが解放されたり、負債が免除されたりします。それはつまり、この世界のすべてのもの、神が、きわめてよいものとして造られたすべての存在、すなわち神と、人と、自然が本来あるべき、望ましい関係に立ち戻ろう、という年です。神に背を向けているならば、神に立ち戻り、人と仲たがいしていたり、人のものを搾取していたらそれを返し、自然を破壊していたら保全しようという年です。イエスと良い関係を作るということは、イエスを通して人々と良い関係を作り、被造物と良い関係を作っていくことにつながり、発展していくのです。

さて、教皇フランシスコは「聖年が、すべての人にとって、希望を取り戻す機会となりますように」と呼びかけました。

キリスト者の希望は、自分の財産や、能力を条件としません。わたしたちの希望は、神から一方的に与えられるものだからです。「希望はまさしく愛から生まれ、十字架上で刺し貫かれたイエスの聖心から湧き出る愛がその根本です」と教皇フランシスコは教えています。教皇が、「希望は決して欺かない」と繰り返し教えたのは、希望が自分の努力によって手に入れることができるものなのではなく、神が一方的に注いでくださる愛に基づくものだからです。この愛は、どんなに私たちが神に背こうとも、止まることはないのです。今年の聖年のロゴには、十字架の形をした船の錨が描かれています。これは、「希望に錨を下ろそう」という呼びかけです。神の愛にしっかりと錨を下ろしている限り、希望を見失うことは決してないのです。皆さん、この、十字架にしっかりと錨を下ろしましょう。自分の能力や計画に錨を下ろすのではなく、自分の弱さ、足りなさを補って余りある、神の愛に錨を下ろしている限り、どんな荒波も恐れることはありません。

神の愛に根差して生きるということは、神の愛を実践して生きるということにつながります。教皇フランシスコは、「聖年の間にわたしたちは、苦しい境遇のもとで生きる大勢の兄弟姉妹にとっての、確かな希望のしるしとなるよう求められます。」と呼びかけました。皆さん、個人として、また共同体として、困難にある人とどのように歩んでこられましたか。愛のわざを通して、希望のしるしとなることができたでしょうか。実は、バチカンの福音宣教省が出した、教区における聖年閉幕ミサの解説には、次のように書いてあります。

聖年とは、一人として必要なものを欠くことがないように、富が再配分される年である。この精神に基づき、聖年が閉幕した後も継続できる真の慈善行為に共同体を感化し、供えものの奉納の際に貧しい人々のための供えものもささげられるように祭儀を準備することによって、貧しい人々への配慮を具体的に示すことができる。

それで、今日この後の奉納では、新潟市のいくつかの教会が協力してフードバンクに寄付した物品の目録が奉納されます。皆さんも、ぜひこの一年に自分たちの行った困難にある人のための奉仕を、心の中で奉納してください。そして、今後も取り組みを続けていく決意を新たにしましょう。

最後に、シノドスについてお話します。昨年の10月、第16回シノドス総会第2会期が終了し、最終文書が出されましたが、教皇フランシスコは2028年の10月までこのシノドスの歩みを継続することを決定しました。その流れは、2026年の終わりまでが各教区におけるシノドスの取り組み、すなわちともに歩む教会となっていくための実践で、2027年前半が、各教区における評価集会、その後、国レベル、大陸レベルの評価が行われ、2028年10月にバチカンで最終的な教会総会を行って終了というスケジュールです。

皆さん、聖年の間、キリストの愛に根差し、揺らぐことのない希望に生きる歩みを続けてきた私たちは、シノドスの柱であり、新潟教区の宣教司牧方針の三つの柱でもある、交わり、宣教、参加を通して、世に対して希望の光をともしていきたいと思います。今日私たちが祝う聖家族は、ヘロデ王の幼子虐殺に対抗できるような力もなく、難民として逃げるしかありませんでした。しかし、3人が家族としてともに歩み、何よりも神に信頼し、神に従って歩むことで、すべての人の希望となり続けました。私たちも聖家族の模範に倣い、ともに、神に信頼し、歩みを進めてまいりましょう。

教皇フランシスコがその大勅書の最後に記した言葉を読んでこの説教を終わりたいと思います。

今より、希望に引き寄せられていきましょう。希望が、わたしたちを通して、それを望む人たちに浸透していきますように。わたしたちの生き方が、彼らに「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編27・14)と語りかけるものとなりますように。主イエス・キリストの再臨を信頼のうちに待ちながら、わたしたちの今が希望の力で満たされますように。わたしたちの主イエス・キリストに賛美と栄光が、今も、世々に至るまで。