聖香油ミサ

本日午前10時より、聖香油ミサが新潟教会で行われました。新潟教区では通常、水曜日に聖香油ミサが行われますが、今年は水曜日が4月1日にあたり、参加できない司祭が多いため、本日、火曜日に行われました。

秋田、山形、新潟から、20名ほどの司祭、助祭が集い、ともにミサを捧げました。新潟教区で歩みをともにしてくださる司祭団の皆様に感謝いたします。このミサでは、司祭の皆様のため、司祭召命のため、そして世界の平和のために祈りがささげられました。

以下、説教の抜粋です。

司教、司祭、助祭について、三つのことを考えてみたいと思います。

引き継いだもの

司教、司祭、助祭がいただいている職務的祭司職は、キリストが始められ、使徒たちに与えられたものだということです。ここには、二つの大切なことがあると思います。まず、キリストの役割だということ。わたしの役割ではありません。キリストの思い、言葉、行いに、わたしが忠実に従うという役割をいただいているのです。そして、使徒たちから引き継がれてきたものだということです。

キリストが、ヨルダン川で洗礼を受けたのち、「神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい」と言って始められた宣教活動を、使徒たちに引き継ぐために、職務的祭司職は制定されました。わたし個人に対して与えられた司祭職でもありますが、使徒たちに与えられ、ずっと引き継がれてきた司祭職ということを意識すべきだと思います。お正月の箱根駅伝では、バトンが次の走者に渡されていきますが、そのバトンには物凄い思いが込められていますよね。先輩たちが紡いできた伝統。これまでずっと苦しい練習を一緒にしてきたこと。自分の区間を走りぬいたこと。そして、お前を信頼しているぞ!がんばれ!という思いでバトンを渡すのではないかと想像します。

今年、新潟で明治以降初めての洗礼から150年目を迎えます。当時の宣教師たちは、借家を借りることにも苦労し、コレラ菌をばらまいたと疑われたり、大変な苦労をなさいました。

皆、キリストが始められた宣教のバトンを受け継いできました。その思いがこもったバトンをわたしたちが受け取っていることを、今日改めて思い起こしたいと思います。そして、バトンは渡さなければいけません。神の国が完成するまで、決してバトンを渡すことをやめてはいけません。多くの人に、様々な形で、キリストというバトンを渡していきましょう。

奉仕する役割

第一朗読でも、答唱詩編でも、福音朗読でも、油注ぎについて読まれました。ユダヤ教の伝統において油は、預言者、祭司、王の選びの時に注がれました。今日読まれた聖書の個所は、この選びが、決して、権能を与えるためとか、役割につかせるためではなく、奉仕するために油を注がれたということが明らかです。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

わたしたち司祭が与えられた奉仕という役割は、「教会共同体の中において、信徒の方々に対して奉仕する」というよりは、やはり油注がれたものである信徒の皆さんとともに、教会内外の、神を必要としている人々に奉仕するということです。つまり、宣教のための奉仕です。イエスご自身が、弟子たちとともに旅をしながら人々に奉仕したことからも、それは明らかです。信徒の皆さんが、それぞれの場で、教会や家庭や社会において、奉仕の役割をふさわしく果たすことができるように、司祭が奉仕者としての模範となり、ともに歩むということです。このような奉仕のためには、神学校で学んだことに加え、信徒の皆さんの信仰、生活、様々な背景に触れ、学ばなければなりません。教皇フランシスコが、「羊のにおいのする羊飼いになりなさい」と度々おっしゃったとおりです。だからこそわたしたち司祭は、常に社会のことについて学び、今、どのような人々が、どのように神を必要としておられるのか知り、どのように神の愛を分かち合うのが適切なのか、継続的に刷新されていかなければなりません。

派遣されて

油を注がれるということは、神から役割を与えられ、派遣されるということでもあります。このすぐ後、わたしたちは司祭の約束の更新をします。司教の呼びかけに、次のような文言があります。

「わたしたち司祭は、喜びをもって受けた神のことばを宣べ伝え、行いをもってあかしするために遣わされています」

わたしたちは、自分の思いを、自分の計画を行うのではありません。キリストの思いを、キリストの計画を、キリストに派遣されて、行うのです。自分がどこで、何をしたいか。どのような仕事に向いているか。向いていないか。そんなことは、まったく些細なことです。わたしたちは、自分の望みや能力を誇ったり嘆いたりするのではなく、自分が成し遂げたことを誇るのでもなく、どこで何をするにも、ただ、神から派遣されていることを喜び、神から派遣されていることを自らの誇りとし、日々神のことばを宣べ伝え、行いをもってあかしするのです。

信徒の皆さん、どうぞ司教、司祭、助祭のために祈り、支えてください。皆さんの愛、つまり、世代や国籍、性格や文化的背景に関係なく、まったく無条件に大切にする思いがなければ、司教、司祭、助祭はその務めを果たすことができません。ミサの時、わたしたちは祭壇を囲みます。祭壇は、司祭と信徒を分け、別々にするものではなく、ともに主の食卓を囲むために、神と、司祭と信徒を一つに結ぶものです。わたしたちは、神によって招かれ、ともに歩むのです。どうか、愛のうちに、歩みをともにしてください。お願いいたします。

最後に、詩編133を読みます。

兄弟のように ともに住むのは、美しく、楽しいこと。
アロンの頭に注がれた香油が、そのひげをぬらし、
衣のえりにしたたるように、
おまえの子らがわた の示す契約とさとしを守れば、
シオンの丘を潤すヘルモンの露のように、
神は祝福で満たし、 とこしえのいのちを与えられる。

油は、アロンになみなみと注がれ、ひげや衣にしみていきました。それが、神の祝福といのちがこの世界に広がっていくことにたとえられています。わたしたちに注がれた油が、多くの人々とともに、多くの人々のために、広がっていきますように。

成井大介司教