2026年新潟教会 復活徹夜祭

皆様、主のご復活おめでとうございます。新潟教会では19時から復活徹夜祭が行われ、聖木曜日、聖金曜日に引き続き、主任司祭の田中神父、協力司祭の町田神父との共同司式プラス4名の侍者の体制でミサがささげられました。昨年もそうでしたが、第3朗読の出エジプトの場面がベトナム語で朗読され、その後の答唱詩編もベトナム語で歌われました。

復活徹夜祭の典礼は、本当に豊かですね。聖歌隊の皆さん、そしてベトナムの青年の皆さんによる日本語の聖歌も素晴らしく、良いミサでした。様々な準備、協力、お疲れさまでした。以下、説教の抜粋です。

弟子たちは、暗闇の中にいました。主を失ったという絶望。主を見捨ててしまったという自己嫌悪。そして、次は自分たちが殺されるのではないかという恐れ。この三つの苦しみ、暗闇のどん底に弟子たちはいました。家に鍵をかけ、閉じこもり、おびえていました。

そこに、光がもたらされました。小さいけれども、暗闇の中にいるからこそ、よく見える、はっきりと輝く光です。主が現れたのです。主の復活は、イエスを殺した人々をすべて打ち倒し、逆に裁判にかけて牢屋に入れ、反対する者を皆回心させるというような、世界を変えてしまうようなものではありませんでした。イエスが復活した後も、イエスを殺した人々は変わらずそこにいました。イエスを見捨ててしまった弟子たちの行いは、なかったことにはなりませんでした。「平和があるように」と言って弟子たちの前に現れたイエスの手、足、脇腹には、傷が残っていました。まさに、暗闇はそのまま残っていましたが、イエスが復活したことにより、暗闇を恐れる必要がなくなったのです。自らに迫る危険を、自らの過ちを、自らの弱さを超える、神のいのちに生かされているのだということを、思い知らされたのです。

光の祭儀で、復活のろうそくに火がともされました。暗闇の中にともされたたった一つの小さな光は、ひとり、またひとりと、伝えられ、分けられていき、最後にはこの聖堂が小さな光でいっぱいになりました。2000年の間、主の死と復活という福音を受けた人々の心に明かりがともされ、私たちまで伝えられてきたのです。

さて、この復活徹夜祭のためは、旧約聖書から七つもの朗読が用意されています。今日はそのうちの三つの個所が読まれました。創世記の天地創造から始まって、出エジプト、エゼキエルの預言など、神が歴史を通して、人類を救いに招いておられることが示されます。

そして、これらの朗読の次に、新約聖書の使徒パウロのローマの教会への手紙、そして、マタイによる福音が読まれ、神がイスラエルを通して示された救いが、キリストにおいて完成し、すべての人に示されたことが教えられています。死は命によって飲み込まれ、いのちそのものであるキリストは今、この世界の隅々で、私たちとともにおられます。

この救いの歴史は、遠い昔の、ある特定の地域の、特定の部族の人たちの物語ではありません。それは、今、私たちを含む、全ての人に向けられた物語です。ろうそくの火が人々の手を伝って私たちの手の中で輝いたように、歴史を通して、どんな所でも、どんな人にでも、示されてきた救いです。

今、世界は分断されています。民族の違い、背景の違いや、様々な利益、主義や主張の違う人を、自分たちを攻めてくる可能性があると言って敵とみなし、戦いに備えたり、武力行使したりします。「自分たちが正しい」と互いに言い合い、相手を攻撃したりします。そんな時代に生きるキリスト者として、私たちは、イエスがすべての人のために、まったく条件を付けることなく十字架上で命をささげ、救いをもたらしてくださったことを思い起こしたいと思います。人をあの人たちと私たちで分けるのではなく、全ての人を「私たち」としてうけとめ、キリストの平和の道を歩みたいと思います。

さて、先ほど読まれた福音書の最後で、婦人たちは墓で天使たちからイエスの復活を知らされ、恐れながらも大いに喜び、弟子たちのいる家へと急いで走っていきました。そこにイエスが現れます。イエスは、婦人たちに言いました。

「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤヘ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

婦人たちは、イエスの復活を人々に伝える役割を与えられ、派遣されたのです。

皆さん、この後すぐ、わたしたちは洗礼の約束の更新をします。洗礼を受けたすべての人は、イエス・キリストの死にあずかり、また復活のいのちにあずかるという恵みに満たされています。

しかしその恵みには、イエスに出会った婦人たちのように、使命が伴います。「平和があるように」と言って鍵のかけてあった家に入ってこられたイエスの平和のメッセージを、いのちのメッセージを、周りの人に伝えるという使命です。四つの福音書に書かれているイエスの復活のエピソードすべてで、イエスは弟子たちを派遣します。復活のいのちにあずかるということは、その知らせを周りの人に伝えるように、という神からの派遣を受けることを必ず伴うのです。

これは洗礼を受けたすべての者の共同の責任です。司祭や修道者だけでなく、知識がどれほどあるかに関係なく、洗礼を受け、聖霊を受けたすべての人が、キリストの平和を運ぶ者として遣わされているのです。

皆さん、これから洗礼の約束を新たにするとき、ただ自分の洗礼の時を思い出すだけでなく、神のいのちの光が心の中で輝いていること、天地創造の時から始まって、様々な時、様々な場で人々に示された神の救い、キリストの十字架の死と復活という、とてつもない神の愛の表れによって与えられた神のいのちの恵みが、「平和があるように」という神の思いが、余すところなく、すべて、自分に与えられているということをしっかり受け止めてください。その思いで、「信じます」と宣言しましょう。弟子たちを派遣し、「私は世の終わりまであなた方とともにいる」と告げた主に信頼し、平和の福音を伝えてまいりましょう。