アンリ神父司祭叙階60年、成井司教司祭叙階25年記念ミサ

10月12日、新潟教会にてアンリ・ホイスゴムス神父の司祭叙階60周年、わたしの司祭叙階25周年を記念するミサが行われ、教区内外から多くの方が集ってくださいました。新潟教区は南北にとても長く、このような機会でもないとなかなか集まることがないため、同窓会のような雰囲気で久しぶりの再開を喜ぶときにもなり、良い交わりの一日となりました。来賓として、新潟教区がお世話になっている神言会のディンド管区長様もご列席くださいました。感謝いたします。

アンリ神父はベルギー出身で、Société des Auxiliaires des Missions(「宣教の補助者の会」と訳すことができるでしょうか)の宣教師で、1966年に司祭叙階、1967年に日本に派遣され、1969年から新潟教区司祭として宣教司牧に取り組んでくださっています。特に、貧困や病気、障がいに苦しむ人々とともに歩む活動に力を入れ、また大学や高校でも教えられました。現在は青山教会、寺尾教会の協力司祭として活動しておられます。このたびの記念ミサでは、そのようなアンリ神父の生き様を表した説教をしてくださいました。こちらから説教をお読みいただけます。

ミサの最後に、来賓代表でディンド神父様、続いて新潟教区司祭代表、信徒代表から祝辞をいただき、花束と霊的花束の贈呈、そしてアンリ神父、わたしから挨拶をいたしました。祝辞でも触れられていましたが、アンリ神父は本当に素朴な人柄と、貧しく困難にある人に奉仕する生き方そのものが福音を証している、そのように感じました。私の挨拶はこちらからお読みいただけます。

ミサ後、信徒会館の1階と2階両方を使って祝賀会が行われました。ゆっくりと時間を取って、たっぷりと話し、大きな家族の団らんのような時間を過ごしました。準備してくださった皆様に感謝です。

日頃から、皆様にお祈りいただき、ともに歩むことができる恵みを感謝いたします。今後ともどうぞよろしくお願いします。

成井大介司教

司祭叙階60周年記念説教(ヨハネ13:12-17)

本日、このミサにおいて、成井司教と私の司祭叙階が記念されています。

司祭の第一の使命とは、福音を宣べ伝えることです。説教、カテキズム、信徒の集会を通じて、キリストの教えを伝えることです。使徒パウロはこの使命を深く認識しており、コリントの信徒への手紙の中で、こう書いています。「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」と。

司祭に託された第二の使命とは、キリスト教共同体を導くことです。司祭は教区の円滑な運営に努めます。

第三の使命とは、洗礼、告解、結婚などの秘跡を授け、キリスト教生活の源泉でありそして頂点である聖体祭儀を執り行うことです。ミサの中で、私たちは最後の晩餐を記念します。マタイ、マルコ、ルカの福音書によれば、イエスはその時、パンを取り、賛美と感謝をささげ、裂いて、弟子たちに与えて仰せになりました。「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしの体である」。そして、「これをわたしの記念として行いなさい」とまた言われて、ご自身の深い願いを表されました。イエスは弟子たちに、単にご自分のことを記念してこの行為を繰り返すように求められたのではありません。イエスは弟子たちが、ご自身のように人々のための命のパンとなり、愛の行いでこの自らを捧げる行為を願われたのです。ミサの中で、司祭が最後の晩餐におけるイエスのこれらの言葉を唱えるとき、参列者もまた、イエスのこの願いに応えて、命のパンとなり、自らの行いを通して自らを捧げることができます。

驚くべきことですが、福音記者ヨハネは最後の晩餐の記述の中で、イエスのこの行為については触れていません。その代わりに彼は他の福音書記者が記録していないイエスの別の行為を記しています。それによると、イエスは弟子の一人ひとりの前にひざまずき、彼らの足を洗いました。これは、家の客人をもてなす際の使用人の仕事でした。シモン・ペトロの番になったとき、ペトロは「あなたがわたしの足を洗ってくださるなんて、とんでもない!」と言いました。イエスを偉大なメシアとして崇めていたペトロは、イエスがここまでへりくだるなんて到底受け入れられなかったのです。しかしイエスは、もしあなたが拒否するなら、もはやわたしの弟子ではないと告げました。それでペトロは慌てて受け入れたのでした。

それからイエスは弟子たちに、こうして自分は模範を示したのだと告げました。イエスは弟子たちが、自分のように人に仕える者となり、それも完全に仕えることに身を捧げてほしいと願っていました。最後の晩餐で、イエスは弟子たちにパンを与えることで、自らの命を捧げました。そして、彼らの足を洗ったことは、まさにその模範なのでした。

ルカの福音書によると、イエスは故郷ナザレを訪れた際、預言者イザヤの書から、神に仕える使命について述べた箇所を皆の前で読み聞かせました。そこにはこう書かれていました。「神の霊がわたしを遣わされたのは、貧しい人々に福音を伝え、虐げられている人々を解放するためである。」

この聖書朗読の後、イエスは会衆に向かって次のように言われました。「今日、この聖書の言葉はあなたがたが耳にした時、実現した。」私たちはイエスを主と呼びます。しかし、主はご自身の使命とは人びとに奉仕することだと思っておられました。それで弟子たちに次のように言われたのです。「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来たのである」と。多くの人々が同じように、困っている人々に仕えることに自らの人生を捧げています。イエスは最後の審判について語る中で、その時、飢えた人々に食べ物を与え、旅人を受け入れ、病人や囚人を訪ねた人々に、あなたがたがこれらの最も小さな者たちにしたことは、わたしにしたことなのだと言われました。イエスは、困っている人々の兄弟であるとご自身をみなされていました。

「被造物を大切にする世界祈祷日」における教皇レオ14世のメッセージは、「親愛なる兄弟姉妹の皆様」という言葉で始まります。教皇は教会の頭ですが、自らが導くすべての人々の兄弟としてご自分を捉えています。またキリスト教徒は司祭を「父」と呼びます。司祭とは、教えと秘跡を通して神の恵みを伝えるので、父なのです。司祭は神の恵みの媒介であるから父と呼ばれているのです。但し、神だけが絶対的な意味での父であることは勿論です。

福音書にはイエスが群衆や弟子たちに教えた事柄が記されています。しかし、同時にイエスの行動の内容も読むことができます。彼の教えは、行動そのものに根ざしていました。彼は苦しむ人々や蔑まれる人々に対して、神の慈しみを告げ示しました。又、ご自分を痛めつける人々にも赦しを示されました。

イエスは弟子たちに、ご自分と同じ使命、すなわち福音を宣べ伝え、病人を癒すという使命を果たすよう求めました。同じように、司祭の使命とはただ単に福音を教え、秘跡を授けることだけではありません。困っている人々に奉仕することもまた司祭の使命なのです。成井司教はまさにそのような使命を遂行されました。彼はとりわけ、カリタス・ジャパンの秘書を7年間務め、2011年の東日本大震災時には救援物資の配布を2年に亘って成し遂げられました。

人々の兄弟として慈善活動を行うことで、司祭とはイエスの期待に忠実にそして謙虚に応えなければならないのです。

アンリ・ホイスゴムス


成井司教挨拶

今日、このようにしてともにミサに参加し、祝ってくださることを感謝いたします。遠くから来てくださった方もおられます。特に、改めまして、神言会日本管区長、エドガルド・サンティアゴ神父様にご参列いただき、感謝申し上げます。また、両親、妹、弟家族も来てくれました。ありがとうございます。そして、新潟教区で働く司祭の兄弟の皆様、修道者の皆様、信徒の皆様、関係各位に心から感謝いたします。

個人的に、大先輩であるアンリ神父様と一緒にお祝いできたことを、とてもうれしく、ありがたく思っています。説教で貧しい人々への奉仕についてお話しくださいましたが、アンリ神父様こそ、困難にある人、貧しい人のために司祭としてずっと奉仕を続けてこられた方です。

私は13歳の時、神言会の小神学校に入りました。司祭になりたいと思ったというより、宣教師という生き方に憧れました。パプアニューギニアで、セスナ機を操縦してパラシュートで食料を貧しい村に配布する宣教師司祭の話を聞いて感動したのがきっかけです。かっこいい生き方だ!と感じたんです。

宣教師というのは、どれだけ洗礼を授けたか、どれだけ教会を建てたか、どれだけ地域に貢献したかということを求められる存在ではありません。

私の理解では、宣教師が大切にすることは三つです。宣教師は、派遣されます。つまり、自分で選んだのではないところに行きます。自分が行き先や活動を決めるのではなく、神が決めたところに派遣されて必要な事をする。それが宣教師の誇りです。宣教師は、派遣先の人々を愛し、ともに歩みます。派遣先の文化を学び、身につけます。自分の持つ文化や背景を派遣先で役立てます。そのすべてを、神の愛を地域の人々に伝えるという目的で行います。それが宣教師です。海外に行くか、国内に行くか、関係ありません。司祭であるかどうかも関係ありません。わたしは、司祭としても、司教としても、そのように生きたい。そのような思いで人々とともに歩みたい。今もそう思っています。

記念カードに載せられている書は、山形市のカトリック老人ホーム、みこころの園のチャペルに掛けられているものです。私が書いたものではありません。真ん中に大きく「神」がおられて、そこから小さな愛が、たくさん、たくさん、広がっています。

私は、たくさんの愛の中の一つです。誰かから愛を受け継ぎ、それを誰かに伝える一人です。人々とともに歩まないと、役目を果たすことができません。25年間、司祭として生きてきたのは、25年を無事に司祭として生きたこと、25年の間に成し遂げたことに意味があるのではなく、福音宣教のために、神の愛を伝えるために多くの人々とともに歩んできたことに意味があると考えています。そのことを表したく、このようなカードにしました。

皆様、ともに歩んでくださることを感謝いたします。そして、どうかこれからも歩みをともにしてください。この世界を神の愛で埋め尽くしていきましょう。よろしくお願いします。

成井大介司教