主の御降誕おめでとうございます

皆様、主の御降誕おめでとうございます。コロナ禍で何をするにも不自由な中だからこそ、イエスの誕生は希望と喜びを私たちにもたらします。皆様の上に幼子イエスの祝福が豊かにありますよう、お祈り申し上げます。以下は新潟教会で行われた主の降誕夜半のミサの説教です。

カトリック新潟教区
成井大介

毎年、クリスマスに世界中の人たちは、2000年前、ユダヤのベツレヘムに生まれたイエスという救い主の誕生を記念します。

皆さんにとって、クリスマスとはどんな時でしょうか。
寒い中、心を落ち着かせて、静かに自分を振り返るとき。気分が盛り上がってくるとき。年末の忙しさで慌ただしいとき。一年間を振り返るとき。自分の大切な人を思うとき。きっと色々なことを思う、特別な時だと思います。

実は、神にとってもクリスマスは特別な時なのです。神は、人が愛しくて、大切で仕方なくて、なんとかして救いたい、私からの救いの招きになんとか応えてほしい、そんな思いで旧約の歴史を通して人間に働きかけてきました。そして、ついに、決定的な仕方で、その気持ちを人間に表されたのが、クリスマス、神が人となって生まれてきたという出来事です。

神が人となってこの世に生まれてきたと言うことは、神が私たちにとって、より身近な存在になったと言うことです。福音書を読むと、人となった神がどのような方であるのかが伝わってきます。

福音書の中で弟子たちは、イエスの言葉を聞き、活動に参加し、一緒に旅をして、食事を楽しんだり、道中のトラブルに巻き込まれたり、喜んだり、泣いたり、怒ったり、一緒にしました。嵐におびえるときに恐れるなと勇気づけられたり、イエスが困難にあるときに、私と一緒にいて祈ってほしいとお願いされたりしました。私たちは、こうしたやりとりから、神が特に大切にしたいこと、伝えたいこと、期待していることなどを理解することができるのです。

それでは、今日、2020年のクリスマスに神は私たちに何を語っておられるでしょうか。先ほど読まれた聖書の箇所は、イエスが生まれた時のことを物語っています。マリアは臨月なのに、ヨゼフと一緒に100キロ以上も旅をして、やっとたどり着いたベツレヘムの町では、すでに宿はいっぱいで、どこにも泊めてもらえませんでした。結局家畜小屋を見つけて、そこでイエスを生み、汚い餌箱に寝かせました。

この誕生について知らせを受けたのは、羊飼いでした。当時の、典型的な貧しい人々です。天使はわざわざこの、貧しく、野宿して羊の番をしている人たちを選んで、救い主を訪問するように言ったのです。

このイエスの誕生の様子、およそ、救い主の誕生に相応しくない出来事は、私たちに何を語りかけているのでしょう。

幼子イエスは、すべての人のために生まれました。しかしきっと、住む家もなく、インターネットカフェにすらいることができず、野宿をする人や、故郷を追われた難民に対して、私も同じですよ。家がありませんでした。ほかの誰があなたを見捨てようと、私が一緒にいますよ、と言っておられるでしょう。

コロナ禍のために会社から解雇されたり、家族に医療関係者がいるために幼稚園に行けなくなった子どもたちに、幼子イエスは「私も、宿屋に受け入れてもらえませんでした。誰からも拒絶され、生まれてきました。私が、あなたを受け入れますよ。」と、そう言っていることでしょう。

「恐れるな!わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる!」という天使のメッセージは、コロナ感染症による、目に見えない、得体の知れない恐怖に右往左往する私たちに勇気を与えてくれます。

羊飼いたちは、誰にも顧みられず、どんなに寒くても、野宿をして羊の世話をしていました。天使は、そんな羊飼いを選んで救い主の誕生を最初に知らせ、彼らはイエスを最初に訪問した者となりました。どんなに体力的、精神的、社会的に厳しい状況にあっても仕事を続けることが求められるエッセンシャルワーカーの人々に、神はきっと特別な祝福を送っておられることでしょう。

ミサが中止になったり、健康の不安からミサに参加できなかったり、職場の規則で人が集まるところに行くことを禁止されていたりして、今、このミサに参加できない人たちにとって、「今日、あなたたちのために、救い主がお生まれになった」という羊飼いたちへのメッセージは、まさしく自分たちに宛てられたメッセージだと感じられるでしょう。

福音の中で、天使は続けて語ります。

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

栄光ある神と聞いて、私たちはどんな神様を思い浮かべるでしょうか?中世の絵画に描かれているような、天使や、聖人の群れに囲まれた、雲の上におられる威厳ある神でしょうか。それも一つのイメージだと思いますが、しかし今日、主の降誕の時に私たちが思い浮かべる栄光ある神とは、寒い暗闇の中、家畜小屋で、無力で小さな赤ん坊として生まれてきたほど、人と共にいることを熱望し、人々を愛してやまない神です。

御心に適う人とは、どんな人でしょうか。徳が高く、清く、優れた人でしょうか。救い主イエスは、優れた人のためだけに生まれたのではありません。すべての人のために生まれたのです。むしろ、特に、罪人のために生まれてきたのです。

考えてみてください。イエスが生まれてきたのは、家畜小屋です。きれいな宮殿ではありません。イエスを初めに拝みに行くよう招待を受けたのは、貧しく、野宿をする羊飼いたちです。神殿の祭司ではありません。私たちに対しても、清いからとか、聖なるものであるからイエスは生まれてくださるわけではなく、神様の方から一方的に、全く無条件に、ありのままの私たちのために生まれてくださったのです。御心に適う人とは、自分の弱さ、汚さ、足りないところ、できれば目を背けていたいようなことを、きちんと自分で受け止め、神に背を向けて弱さを隠すのではなく、むしろ神に向かって「このような弱い私のために生まれてくれてありがとうございます」と素直に感謝する人のことです。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住むものの上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。」

今私たちが生きる世界は、まさしく闇の中を手探りで進むような状況です。しかし、だからこそ光は、希望は、喜びは、ひときわ大きく輝きます。

皆さん、今日、私たちが受けた救い主の降誕の喜びをしっかりと受け止め、周りの人と分かち合っていきましょう。人と共にいたり、話したりすることの難しい世の中ですが、自分にできる小さな祈りと行いを特に小さく弱い立場にいる人々のためにしていきましょう。

ここでともにいる皆さん、インターネットを通して共にいる皆さんの上に幼子イエスの平和と祝福がありますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。