シノドス回答に感謝

新潟教区の皆様

 

 昨年の11月、皆様にシノドスと教区の優先課題についての振り返りのお願いをお送りしました。具体的には、30の小教区、1つの分教会、4つの巡回教会の、合計35の教会共同体。そして7つの女子奉献生活者の会にお願いをお送りしました。これまで35のうち、23の教会共同体から、また7つのうち、6つの女子奉献生活者の会から返答をいただきました。コロナ禍で集まることが難しい中、工夫して取り組んでくださったことに感謝申し上げます。コロナ禍のために話し合いを持つことが出来ないから返答を送ることが出来ないと連絡をいただいた共同体もあります。しかし、昨年11月のお願いの手紙にも書いたとおり、大切なのは質問に答えるということではなく、どうしたらともに歩む教会として成長していくことができるのかをともに考え、歩みを進めることです。これからも各共同体で、ともに歩む共同体としてのあり方を深めていっていただけたらと思います。

 いただいた返答に基づいて、新潟教区として司教団に提出する回答をまとめましたので、お送りいたします。お寄せいただいた返答は様々な視点、背景で書かれており、すべての意見を反映してまとめるのは不可能です。この難しい作業を担当してくださった、新潟教区シノドス担当者の大瀧浩一神父様に感謝いたします。この回答を読んで、ともに歩むための参考にしていただけたらと希望しています。

 新潟教区では、これから宣教司牧方針を作成するための話し合いを続けていきます。そのための分かち合いのガイドを作成し、お送りしますので今しばらくお待ちください。

 2022年7月5日

カトリック新潟教区
司教 パウロ成井大介


 シノドス新潟教区回答書(PDF)

 

カトリック新潟教区 シノドス回答書

 

1 はじめに

 新潟教区におけるシノドスの歩みは、2021年10月17日(日)、司教座聖堂及びすべての小教区、修道院におけるシノドス開幕を祝うミサをもって始まった。すでにこの歩みが始まる前から新潟教区の新たな宣教方針策定の準備が進められていたため、シノドス事務局から示された10の質問に対する意見聴取は、これまで教区で取り組んできた宣教の優先課題についての振り返りと並行して行われることになった。
 意見聴取を呼びかける書簡は、ルビ付き日本語版、英語版、ベトナム語版をも準備し、昨年10月27日に各小教区、修道院に送付され、教区のウェブサイトにも掲載した。回答は、本年3月22日を期限として、それぞれの共同体で話し合いを行い、共同体として意見を取りまとめて、提出いただけるようお願いした。また、これとは別に、共同体の話し合いに参加が困難な方々のために、教区のホームページに意見聴取のフォームを設けた。
 コロナ禍にあって、話し合いの機会を設けることが困難な共同体もあり、寄せられた回答には、アンケート形式で聴取した意見をそのまま回答としたものも含まれている。また、ホームページのフォームからは残念ながら回答はなかった。
 この報告書は、各小教区、修道院から寄せられた意見聴取の内容をもとに作成した報告書(案)を、4月29日に開催された新潟教区宣教司牧評議会に諮って最終的にまとめたものである。

 

2 シノドスの10の質問に対する回答

問1 一緒に歩んでいる人たち

 教会と社会で、わたしたちは同じ道を並びながら歩いている

 回答

 今回、各小教区、修道院から寄せられた回答を見る限り、私たち(教会)が誰とともに歩まなければならないかを分かっていない人はいない。だが、ともに歩めていると感じている人は極めて少ない。高齢や病気により教会に通うことができなくなった信徒、様々な理由で教会を離れてしまっている人、心に病を抱えた人々、生活に困窮する人々、滞日外国籍信徒。これらの人々とともに歩まなければと感じながらも歩めていない現実がある。このような中で、高齢化により具体的な活動を行うことができなくとも、「祈りをもってともに歩む」を実践するシスターたちがおられることは、新潟教区にとって心強い支えである。
 ともに歩めていないというこの感覚はまた、普段ミサで顔を合わせ、挨拶を交わす間柄にあっても、同様に存在する。これは長く個々人の信仰を中心において他者(信徒、社会など)とのつながりについてはあまり意識されることがなかったことと関わっていると思われる。ここから、さらに教会と社会との乖離を感じ取っている人もいる。福音を伝えようとする教会が逆に社会から見放され、一緒に歩んでもらえていない現実があるとも言える。

 

問2 真剣に耳を傾ける

 傾聴は最初のステップ。しかしそのためには、偏見なしの、開かれた精神と心が求められる

 回答

 神の言葉に耳を傾けるという信仰者の姿勢はあっても、それが言葉にならない声、教会で出会う人々の声、周囲の人々の声を聞き取ろうとする姿勢と結びついてはいない。周囲の声に耳を傾ける時間と心の余裕がないと感じる一方、自分の声に耳を傾けてくれる存在を求めている。

 

問3 自分の考えをはっきり声に出す

 すべての人は、勇気をもって、気兼ねなく(parrhesia)、つまり自由に、真実を(in truth)、愛を持って話すよう招かれている

 回答

 耳を傾ける姿勢がないところに声は発せられない。信者同士の交流に安らぎを見出している人がおられる一方で、教会の中に耳を傾ける、声を上げるという関係はまだ十分に作り上げられていない。教会の外に向かっては、日本社会に宗教への警戒感、「宗教は胡散臭い」という感覚が広く浸透しており、面と向かっての宣教には、働きかける側、受ける側、双方に抵抗感がある。受け取る側のニーズによって自由に選択が可能なインターネット、特にSNSや著作物を介しての情報発信には効果がある。地域社会に対しては、教会を母体とした幼稚園、こども園、社会福祉施設との連携、また被災者支援のボランティア活動、教会施設の地域への開放、カトリックの葬儀を大切な宣教の場としても捉え直す等が考えられる。

 

問4 典礼

 「ともに歩む」ことは、ともにみことばに耳を傾け、感謝の祭儀を行うことに基づいている場合に、はじめて可能である

 回答

 ここでは典礼が「ともに旅をする」ことを支えているかが問われている。確かにミサは個々人の信仰生活を支える力となっている。コロナ禍で公開のミサが中止となった経験はこのことを一層強く意識させることとなった。また、一堂に集うミサがともに歩むことを支える力であることへの気づきとなった共同体もある。
 少子高齢化が進み、ミサに来られなくなる高齢者の増加や若者の減少と教会離れの中で、ミサにおける役割が特定の信徒に集中する傾向があるが、子どもから大人までできるだけ多くの人で役割を分担するような工夫がなされている。また、多国籍の信徒が集まる小教区の中には、定期的に各国語のミサが行なわれるだけでなく、日本人と他国籍の信徒がともに一つのミサに与り、侍者の他、朗読や共同祈願をそれぞれの言語で担当する工夫をしているところもある。これらの工夫は、ともに歩む小教区となるために重要な試みである。
 コロナ禍で公開ミサが中止となり、聖体拝領ができない期間が続いた経験から、みことばを味わう重要性に気づかされた。また、コロナ禍にかかわらず、司祭不足から、主日に集会祭儀が行われる共同体もある。これまでのように聖体拝領にだけ重きを置くのではなく、みことばをともに味わい分かち合うことをも大切にすることが必要だと思われる。

 

問5 わたしたちの共通の使命(宣教)に対する共同責任

 「ともに歩む」ことは、すべての人が参加するよう招かれている、教会の使命(宣教)に奉仕するためである

 回答

 従来、宣教は司祭とシスターにのみ委ねられた使命といった考え方があった。このような考え方からの脱皮が一部に芽生えているが、依然として宣教は司祭、シスターに任せるといった傾向が根強くある。このような中で、個人の宣教(の責任)と共同体としての宣教(の責任)について認識が統一又は共有されていないと感じるとの指摘がある。信徒もみな福音宣教者なのだという呼びかけは、宣教は個人でするものか、それとも共同体としての業なのかという戸惑いを、信徒の中にもたらしているものと思われる。
 このような状況にあっても、宣教のため、教会を母体とする幼稚園、こども園、保育園、その他の社会福祉施設との連携を模索する共同体や小教区がある他、小教区内や小教区を越えて東日本大震災被災者支援、コロナ禍による生活困窮者支援のために活動するグループがある。小教区で周知された活動には、献金他の協力支援がなされている。他にも、個々人として支援活動に参加している信徒もいるが、小教区として情報が共有されていない場合も多く、これらについては個人が(好きで)やっていることと捉えられてしまう傾向がある。

 

問6 教会と社会における対話

 対話のためには根気強さと忍耐を要する。しかし対話は相互の理解を可能にする

 回答

 対話に関しては、教会内においても、社会との間でも大きな課題があると思われる。すでに指摘した通り、教会の中に耳を傾ける、声を上げるという関係がまだ十分に作り上げられていないからである。このような状況の中で、小教区によっては、今回のシノドスの質問についての分かち合いが、対話の良い機会になったと回答しているところもある。コロナ禍により、集うことが極端に制限された状態が続いたが、今後対話の場を少しずつ増やすことができるだろう。だが、それにも増して、まず司祭、修道者、信徒、一人ひとりが対話の姿勢を学ぶ必要がある。
 少子高齢化や信徒の多国籍化など小教区が直面する重要な課題について、小教区評議会等での話し合いが行われている共同体もあるが、まだ評議会が十分に機能していない小教区もある。
 社会に対しては、地域の自治組織の行事参加を通して交流を図ること、また教会バザーを地域に開かれたものとする等の工夫がなされているが、対話にまではいたっていない。また、一部の小教区では教会を母体とする幼稚園との連携を模索し、教職員と対話の機会を持っているところもある。さらに今後の可能性として教会施設内にフリースペースを作って地域に開放し、対話の場とできないかと考えている小教区もある。

 

問7 エキュメニズム(教会一致)

 洗礼によって一つに結ばれ、異なる信仰告白をするキリスト信者の間の対話は、シノドスに向かう歩みの中で特別な位置を占めている

 回答

 これまで、キリスト教一致祈祷週間等で合同の祈祷会やその他合同の行事を開催してきた地域があるものの、高齢化によって開催の規模が縮小されたり、コロナ禍で中止せざるを得ない状況になっている。第二バチカン公会議以降のこれまで取り組みで、プロテスタントとの交流に抵抗感はなくなったものの、積極的に交わろう、理解を進めようとの意識の高まりまでは見られない。今後、キリスト教一致祈祷週間等の合同祈祷会や朝祷会で、ともに祈る機会を大切にすると同時に、災害支援のボランティア活動等で協力できないかとの提案も上がっている。

 

問8 権威と参加

 ともに歩む教会は、参加し、共同責任を担う教会である

 回答

 問5の回答に示した通り、宣教は司祭と修道者の役割であり、信徒はその指示に従うだけの協力者という捉え方が残るものの、信徒の宣教の使命への参加は少しずつ進んでいると考える。新潟教区では、2016年から各小教区で小教区規約の制定を進めており、ほぼすべての小教区でその作業を終えている。小教区によって状況はかなり異なるものの、実際に規約に則った教会運営を始めているところでは、主任司祭が自分ひとりの考えですべてを決定してしまうのではなく、信徒も司祭と責任を分け合って教会運営を担おうとしている。
 今回、小教区への意見聴取で女性の参加について改めて気づかされたのは、小さな共同体で性別にかかわらず全員参加で教会運営にあたっている小教区がある一方で、女性信徒が多数を占め、女性が多くの役割を担っている小教区にあって、責任のあるポジションについてはその多くを男性信徒が担っていることである。「ともに歩む教会」となるための今後の課題である。

 

問9 識別と決定

 わたしたちは、「ともに歩む」仕方で、聖霊がわたしたちの共同体全体を通して言っていることを識別することによって意志決定をする

 回答

 問8の回答で触れた小教区規約は小教区の意志決定の方法の明確化のために導入されたものである。小教区の宣教司牧の方向性を協議するために評議会が組織され、小教区の最終的な責任を担う主任司祭と小教区に所属する信徒、修道者の代表である評議員が重要な事柄を識別するために意見を出し合い、最終的に主任司祭の承認をもって小教区としての意志決定を行なっていく。今回の意見聴取では信徒の意見が十分に汲み上げられていないとの指摘もあるが、この歩みはまだ始まったばかりであり、今後司祭、信徒、修道者が協力し小教区規約に示された意志決定の在り方が定着していくよう試行錯誤が求められる。その際、評議会で話される事柄が評議員だけの意見となってしまわないように、小教区内の様々な対話や交わりの機会を通して信徒一人ひとりの意見を汲み上げる必要がある。
 最後に、この度報告書を送ってくださったある小教区から、シノドスのために行われた今回の分かち合いについて「聖霊が働かれた共同の識別の体験をしたと感じている」との意見があったことを付け加えておく。

 

問10 「ともに歩む」中で私たち自身が養成される

 「ともに歩む」ことは、人間およびキリスト者、家族、地域社会の変革、養成、そして生涯学習を受け入れることでもある

 回答

 この問いのテーマにある通り、「ともに歩む」努力自体が私たちの養成なのだと確信している。「ともに歩む」には、共同で責任を担うこと、共同で識別することが含まれている。共同の識別のためには、小教区評議会の場を生かして宣教司牧に関する重要な事柄を決定していくことが必要だと考えるが、そのための前提として、それぞれの共同体に「耳を傾ける―自分の考えを声に出す」という関わりが不可欠である。今回の意見聴取では、共同の識別が霊的な識別となるために、霊的な識別がどのようなものなのかを学ぶ機会が必要であるとの提案がなされている。

 

3 まとめ

 「ともに旅をする」新潟教区の現状は、10の質問へのそれぞれの回答に端的に表われている。教会内においても、教会の外に向けても、新潟教区にとって「ともに歩む」はまだ多くの課題を抱えている。今回の意見聴取の分かち合いにおいて浮き彫りになったのは、司祭、修道者、信徒からなる共同体において、「耳を傾ける―自分の考えを声に出す」という関わりは、まだ十分には作り上げられていないことであった。シノドスの歩みと並行して始まった新潟教区の宣教方針策定のための話し合いは、この関わりを深めていくための助けとなるだろう。それはまた聖霊の働く場を整えることでもある。なぜなら、この歩みはともに責任を担い、ともに識別を行おうとする試みだからである。
 今後、いくつかのプロセスを経て宣教方針が決定、発表されることになるが、新たな宣教方針に沿って、教区の宣教司牧課題、またそれぞれの小教区における具体的な課題に取り組むことで、「ともに歩む」がさらに深まって行くことを願う。