復活の聖なる徹夜祭

主の御復活おめでとうございます。今日の新潟市は嵐と青空が交互にやってくるおかしな天気でしたが、無事に復活徹夜祭のミサが行われ、二人の方が洗礼を受けられました。おめでとうございます!今日のミサも、主任司祭のラウール神父様と助任司祭の岡神父様との共同司式で捧げられました。侍者を担当された4名の皆さん、復活賛歌や諸聖人の連願を美しく歌ってくださった聖歌隊の皆さん、お疲れ様でした。ろうそくなどの準備をしてくれた皆さん、ありがとうございました。以下は、説教の要約です。

この夜、わたしたちは、歴史の中で最も重要で、最も力強く、最も愛に満ちた出来事、主の復活を祝います。昨日、わたしたちは聖金曜日にあたり、主の十字架上の死を記念しました。御復活の意義を豊かに受け止めるためには、まず、主、イエス・キリストが死んだ、という事実をしっかりと受け止める必要があります。神の独り子が、人となられ、わたしたちの救いのためにむごたらしく磔にされ、殺されました。ゲッセマネの園で、「私とともにいてほしい」と弟子たちに願い、苦しみ、もだえながら、祈るイエスを前にして眠りこける弟子たち。捕らえられるイエスを見捨て、逃げる弟子たち。そんな弟子たちに代表される人間に対して、神の独り子は自らの命を生け贄として捧げ、人類に救いを与えてくださいました。一体、神がわたしたちに注いでくださる愛は、どれほど大きいのでしょうか。

この愛は、ただ一度、イエスを通して2000年前にイスラエルで示された遠い昔の人たちの話なのではありません。世界の創造の時から、神の愛は人類の上に注がれていました。その、壮大な神の愛の歴史が、今日の朗読で語られています。これらの聖書朗読は、昔書かれた、自分とあまり関係がないようなものではありません。例えば、最初に読まれた創世記。「神はご自分にかたどって人を創造された。」とあります。あなたのことです。あなたを、神が、ご自身にかたどって、大切なものとして創造されたのです。あなたの周りにあるものも含めて、「極めて良かった」と言われるほど、素晴らしいものとして造られたのです。

アブラハムを試す場面。あなたが人生の中で直面する様々な試練を通して、神はあなたとの信頼関係を深め、あなたを祝福するのです。出エジプト記では、様々なものに捕らわれているあなたを導き出し、イザヤの預言ではあなたをいつくしみ、渇いたら私の元に来なさいと招かれます。このように、天地創造の時からすでに始まっていた救いの歴史は、わたしたち一人ひとりに神が語りかける救いの歴史でもあります。

主が復活したという出来事は、その、死からいのちに移った瞬間のことが聖書に出てきません。むくりと起き上がったとか、体を包んでいた布がどうやって取られたかというようなことは、聖書には書いてありません。しかし、今日、わたしたちが行っている復活徹夜祭は、様々なシンボルで主の復活という出来事を表しています。闇の中に光が灯されること。復活賛歌。救いの歴史の朗読。洗礼と堅信。御聖体。これらすべては、主の復活という出来事を典礼を通して五感で感じることができるよう表現されているものです。

闇が深ければ深いほど、光は輝きます。輝く光の周りにあるものは、照らされます。愛する主を失った婦人たちの心の闇に、その光が輝きました。ちょうど、わたしたちがろうそくの光を受け取り、それを隣の人に分けていったように、婦人たちは、心に光を灯し、イエスに言われたとおり、弟子たちにその光を手渡します。弟子たちは、さらにその光を多くの人に手渡し、時代を超え、場所を越え、今日、わたしたちの手元にも光が届けられました。

イエスは、ガリラヤで弟子たちに会うと告げました。ガリラヤは、弟子たちがイエスに招かれた場所です。最初に出会った場所。そこで、また新しい福音宣教を始めよう。イエスにはじめて出会ったときの、感動、喜び、使命感を思い起こし、復活のイエスに勇気をもらい、主の死と復活を知らせていこう。そういうことだと思います。これは、わたしたちへの招きでもあります。

すでに洗礼を受けた方には、自分が洗礼を受けたときのことを思い出すよう招く言葉。幼児洗礼の方には、イエスをどのように意識するようになったのか、思い出すよう招く言葉。今日、これから洗礼を受けるお二人にとっては、この日を自分自身のガリラヤとして心に刻むよう招く言葉。わたしたちは、それぞれのガリラヤで主に出会い、復活したイエスのいのちに与り、新たな歩みを始めます。この春、3年に及ぶコロナ禍に関連する様々な規制が緩和され、わたしたちは活動を本格的に再開しました。教会でも、どこにいても、新たな歩みを主とともに踏み出していけたらと思います。

これから洗礼を受けられる皆さん、先程読まれたパウロのローマの信徒への手紙には、次のように書かれています。

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

このように、皆さんはこれから洗礼を受け、キリストの死と復活によってもたらされた、新しいいのちを生きるものとなります。キリストのいのちを生きるということは、洗礼によってキリストに結ばれた他の多くの人々とともに生きるということです。信仰の喜びを分かち合いながら、これからともに歩んでいってください。