加茂教会訪問

昨晩の地震で被害に遭われた皆様にお見舞い、お祈り申し上げます。東日本大震災10年目のタイミングで起こった大きな地震、あのときの記憶がフラッシュバックされた方もたくさんおられたのではないかと思います。心の平安をお祈りいたします。

 

さて、本日は加茂教会を訪問しました。2017年に創立50周年を迎えた、20名ほどのとても元気であたたかい多国籍共同体です。教会には幼稚園も併設されています。ミサの後は皆さんとお話しし、加茂について教えていただきました。バレンタインデーということもあり、加茂名産の萬寿鏡とチョコレートをいただきました。感謝でございます。

以下、ミサの説教の要約です。

レビ記13章には、重い皮膚病の人に当時どのように対応したのかが書かれています。

皮膚病の疑いがある場合、祭司がその人の皮膚の患部を調べ、もし症状が皮膚の下まで及んでいる場合、祭司は「あなたは汚れている」と言い渡します。重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばなりません。その人は独りで宿営の外に住まなければなりません。

もし症状が皮膚の下まで深く及んでいない場合、祭司は患者を一週間隔離します。七日目に祭司が調べて、患部が広がっていなければ、もう一週間隔離します。七日目に再び調べ、症状が治まって広がっていなければ、祭司はその人に「あなたは清い」と言い渡します。

こうした病人の扱いは、今の時代に似ています。コロナの疑いのある人は、医者のところへ行き、PCR検査を受け、陽性だと宣言されると隔離されるわけです。周りの人も疑われ、みんなから避けられます。症状がよくなったら、またPCR検査を受けて、最終的に直ったことを証明してもらわなければいけません。病気で苦しむ、と言うことだけで無く、まわりの人の恐れや不安から来る、病人の排除、人間の尊厳の否定があります。2000年経った今でも、病気の人が社会の中で辛い目に遭うという状況は変わっていないようです。

福音書でイエスを遠くから見つけた、重い皮膚病を患っている人は、本来ならば、人から離れていて、「私は汚れています」と叫ばなければいけませんでした。しかし、イエスを遠くから見つけ、急いで近寄り、ひざまずいて願い、「みこころならば、私を清くすることがおできになります。」と言います。その人に対して、イエスは深く憐れんで、その人に触れ、病気を癒やされるわけです。

そして、イエスは清くなった人に対して、「祭司の元に行って体を見せなさい」と言います。先ほどレビ記を読んだとおり、祭司が「あなたは清い」といわないと、町には入れないし、社会復帰ができないからです。

つまりイエスは、病気の人を恐れたり、排除したりするのでは無く、受け入れ、心揺り動かされ、癒やされるんですね。そして、社会的に復帰するために送り出し、「この人は清い人ですよ。神様にとって大切な人ですよ。人々の中で、社会の中で尊重されるべき人ですよ」と示すのです。私たちの神様は、そういう方です。

私たちは、この福音から特に二つのことを学べるのではないかと思います。

まず最初に、イエスがなさったように、人の存在を肉体だけでは無く、つまり、病気かどうか、感染しているかどうか、と言うことだけでは無くて、気持ちの上でも、霊的にも、社会的にも尊重される存在として、大切にするということ。コロナで皆が疑い深くなっている今だからこそ、笑顔や、小さな親切や、祈りによって、周りの人を大切にしていくように招かれていると思います。

次に、神に信頼することです。福音の中で、重い皮膚病の人は、律法を破って、イエスの元へ駆けつけました。イエス様だったら私のすべてを受け止めてくれる。イエス様だったら私を癒してくれる!絶対的に信頼して、イエスの元に駆けつけました。

私たちも、この重い皮膚病の人に見習って、イエスへの、神への信頼を確かなものにしていけたらと思います。

今週から四旬節が始まりますが、こんな状況で迎える四旬節だからこそ、しっかりと自分自身を振り返り、この厳しい歩みの中で、神がどれほど私たちを愛し、励まし、寄り添い、救いへの道を一緒に歩んでくださっているか、しっかりと黙想していきましょう。この難しい状況にあってこそ、イエスの十字架上の苦しみと死、そしてすべてに打ち勝つ復活の命は、よりはっきりと、より深く、私たちの心の中にすとんと落ちていくと思います。自分の弱さ、惨めさ、すっきりしない思いはそのままに、重い皮膚病の人のように、大胆にイエスのところへ駆けつけましょう。イエスは私たちを笑顔で迎え、触れ、腹の底から私たちの痛みに共感し、救いへと導いてくださいます。