新潟教会で午後7時から聖木曜日の主の晩餐の夕べのミサが行われました。春の雨が優しく降る中、主任のラウール神父、岡助祭、共同体の皆さんとともに、この最も聖なる三日間の典礼が始まりました。残念ながら、コロナ禍のために洗足式を行うことができませんでしたが、皆さんの協力によって、落ち着いた雰囲気の意義深い典礼となりました。以下は説教です。
成井大介司教
皆さんは、自分の人生の最後について考えることがありますか?おそらく、若くても、高齢でも、誰でも一度はあるのではないでしょうか。最後にどんなことをするか、誰といたいか、何を話したいか。いかがでしょう?
コロナ禍が始まって、この世での最後の瞬間を、家族や友人と過ごせず、さみしく亡くなり、さらには葬儀や埋葬すら家族が参加できないということが世界中で起こりました。亡くなられた人も、その家族も、どれほどつらかったでしょう。
3月15日頃、ウクライナのカリタスマリウポリの事務所が戦車によって砲撃されました。そこには、カリタスマリウポリの職員二人と、その家族5人が避難しており、全員死亡しました。戦争や、紛争が続く地域では、自分がいつ殺されるのかわからない中、息を潜めて生きている人たちがいます。想像を絶する恐ろしさで、あってはならないことです。
自分に死が迫ったとき、人は、本当に大切な人とともに、ささやかでも愛にあふれる時を過ごしたいと願うのではないでしょうか。それはとても大切な、特別な時です。
イエスの場合、今日の朗読にあったとおり、弟子たちと食事をしました。そして、足を洗いました。イエスは、自分が十字架につけられる前、弟子たちと一緒にいることができる最後の時間、この二つのことをしたかったのです。思いのこもった、とても特別なことです。イエスがわたしたちに伝えたかった、残したかったことです。
まず、食事について見てみましょう。この、過越の食事でイエスが制定した御聖体を通して、キリストの体が現存します。ミサの中でわたしたちは毎回この過越の食事を記念しますが、そのたびにキリストが最後の時に弟子たちと食事をしたこと、活動を通して示された神の愛、わたしたちのために死んで復活してくださったことを思い起こします。
そのキリストの体は、わたしたちに食べられるためにあります。英語で御聖体のことをHoly Communion、聖なる交わりと言いますが、まさにわたしたちは、御聖体をいただくことによってキリストと交わり、キリストの十字架の死と復活にあずかる者となるのです。
こういったことは、洗礼を受けるときや、カテキズムで勉強したりして、知識として知っていると思います。それを、ミサにあずかるたびに、しかし、特に今日、聖木曜日に、自分のこととして、自分の体験として、自分に差し出された救いとして受け止めていただきたいと思います。イエスが、あなたの前で、「十字架につけられる前に、あなたと一緒に食事をしたかったんだ」と言っておられるのです。「私を思い起こしてください。私の死と復活にあなたも入ってください。私のうちに一つになり、父と一つになってください。あなたも、あなたの周りの人も、私を裏切るような人も含めてみんな一緒に、私と一つになってください。」御聖体を通して、イエスはそう語りかけておられるのです。
次に、足を洗うということについて考えてみましょう。イエスが弟子たちの足を洗うということは、弟子たちにとってとても大きな驚きだったでしょう。足を洗うことは、奴隷の仕事だったそうです。なぜそれを、主が弟子のために行うのか。ペトロはそのような気持ちをそのままイエスにぶつけます。でもイエスは、「互いに足を洗い合う」模範を示すため、ペトロの足を洗います。
イエスは福音書の中で度々、へりくだること、謙虚であることの大切さを弟子たちに教えます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」マタイ 20章 27節
わたしたちはキリスト者として、それぞれの生活の場で、何らかの形で人に仕える生き方をしていると思います。小さな事も、大きな事も。たとえば、家事。仕事。奉仕活動。介護。育児、司牧などなど。どれも、尊い、大切な、仕える行いだと思います。ただ、イエスが教える、互いに仕えるということは、へりくだって、謙虚に務めを果たす、というだけではありません。それは、「イエスのように」仕えなさいということなのです。
イエスはどのように人々に仕えたでしょうか。子ども、病気の人、悪霊に取り憑かれた人、罪人と出会い、受け止め、癒やし、話し、食事をしました。そして、最終的には、すべての人のために自分の命を捧げました。イエスの仕え方は、ただ、個人的に謙虚に生きるということではなく、積極的に出向いていき、人に働きはたらきかけていく仕え方であったと思います。
今日の福音はヨハネの13章1節からですが、同じ13章の34節で、イエスは弟子たちにこう言います。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」言ってみれば、「互いに仕え合う」事と、「互いに愛し合う」ことは、ヨハネが伝えるイエスの新しい掟の中心で、それは二つで一つなのだと思います。人に仕えるのは、言われたからとか、義務だからではなく、愛から生まれる行動なのです。まさに、イエスが自分の最後の時に、弟子たちと食事をし、足を洗ったのは、「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」イエスのあふれる思いから生まれた行動です。この食事を、この足の洗いを、特別に記念する今日、わたしたちはしっかりとイエスの愛を受け止め、感謝し、愛のうちに人々に仕えていく恵みを願いたいと思います。