復活の聖なる徹夜祭

主のご復活おめでとうございます。新潟教会では、恵まれた天気の中復活徹夜祭が行われました。暗闇の中の光、苦しみにあっての希望であるご復活の恵みをしっかりと受け止め、生きていきたいと思います。

なお、今日、4月16日は新潟知牧区が教区に昇格された日で、今年でちょうど60年となります。60年を通して受けた神の恵み、福音を生き、伝えてきた先輩方、地域の中で祈りと愛の業を行ってきた共同体、すべてに感謝して、これからの歩みの上に神のさらなる祝福と導きを祈ります。これからもともに歩む共同体として福音を生きて参りましょう。以下は徹夜祭の説教です。

成井大介司教

神は、御独り子の十字架の死と復活を通して、ご自分がどれほど人間を愛しているかを表し、その救いの計画を示されました。わたしたち、イエスをキリストと信じる者にとって、今日は一年の中で最も聖なる日であり、典礼は様々なシンボル、特に光を使って荘厳に祝われます。

暗闇の中に輝く光は、困難の中、苦しみ、絶望の中にあってこそ、ますます輝く神のいのち、愛、喜び、希望を示します。創世記によると、神は天地創造の時、「光あれ」と言って、まず最初に光を造られました。この光のことを、ヨハネの福音書は次のように記しています。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

キリストの光は、いのちの光です。世界を照らし、いのちを与える光。死に打ち勝って、復活のいのちへとわたしたちを招く光です。

2020年、コロナ禍が始まり、わたしたちは聖週間の典礼にあずかることができませんでした。昨年、2年ぶりに聖週間の典礼に参加することができ、「こんなにうれしい御復活ははじめて」という声が聞こえてきました。今年は、感染者数は減らないけれども、聖週間の典礼は実施できるかな、と安心していたら、四旬節に入る前に戦争が始まりました。そして、今も、この瞬間も、戦争が続いています。あと、6時間もすれば、ウクライナでも多くの人が教会に集まったり、シェルターや地下室で、可能であればろうそくを灯し、復活を記念されるでしょう。わたしたちも、祈りによって連帯し、主の愛に信頼し、復活のいのちへの希望を新たにしたいと思います。昨日、岡助祭が説教の中で、イエスの受難にまつわる人間模様について話してくださいましたが、私も受難の朗読でイエスを陥れる祭司たちの言葉を聞きながら、まさに今世界で起こっていることだと心が痛くなりました。

一週間前、受難の主日のミサの説教で、教皇フランシスコは、イエスが十字架上で人々の罪の許しを御父に願う姿を取り上げ、次のように話されました。

「自分が何をしているのか知らないのです」。人が暴力に頼る時、御父である神のことも、兄弟である他者のことも、何もわからなくなってしまうのです。戦争の狂気がある場所で、イエスはもう一度十字架にかけられます。夫や息子の不条理な死に涙を流す母たちの中で、子どもを抱いて逃げる避難民の中で、取り残された老人の中で、未来のない若者の中で、兄弟殺しのために戦場に送られた兵士の中で、イエスは再び十字架に打ち付けられるのです。

本当に残念ですが、人間は、過ちを繰り返しています。しかし、そんな人間を神はこよなく愛しておられるのです。

先ほど、救いの歴史をたどる朗読が読まれました。世界が造られ、ノアの洪水があり、アブラハムが祝福され、エジプトから脱出し、捕囚の辱めを受ける中、神は常にその民を心にかけ、導いてきました。民の心が神から離れても、戦いに敗れ、国が滅びても、神の救いへの招きは続きます。そして、受肉した神の独り子によって神の国の到来がつげ知らされ、その受難と復活によって、決定的な救いがもたらされたのです。

今日読まれた福音によると、婦人たちは空になった墓を見て途方に暮れていました。イエスが殺されて絶望的な状況にあった中、さらに遺体が消えてしまったのですから、本当にどうしていいかわからなかったと思います。そこに輝く衣を着た二人の人が現れて、恐れる婦人たちに言います。「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」これこそ、まさに、喜びの知らせ、福音そのものです。わたしたちが今日、ろうそくの光を隣の人から灯してもらい、また隣の人に渡したように、このミサで聞いたこの良き知らせを人々に告げ知らせるよう招かれているのです。

ところで、1962年4月16日に新潟知牧区は教区に昇格されました。つまり、今日、まさに今日この日、新潟教区が生まれてちょうど60年になりました。ご復活と還暦を一緒にお祝いできるとは、なんとうれしいことでしょう。しかし、この60年という年月は、その期間が過ぎたことに意味があるのではありません。新潟、山形、秋田に祈る共同体が存在し、喜びの知らせを受けて、それを自分のこととして受け止め、周りの人々に伝え、主と地域とともに歩んできたことが素晴らしいのです。皆さん、この機会に、自分に信仰を伝えてくれた人に感謝したいと思います。そして、自分もまた今日の福音の婦人たちのように、主の復活のいのちに力づけられ、希望のうち信仰を生き、周りの人々にその喜びを伝えていきたいと思います。