2023年 年頭司牧書簡

2023年 年頭司牧書簡

たがいに開かれ、ともに歩むために

 

新潟司教 パウロ 成井大介

 新潟教区の皆様、主の御降誕と新年のお喜びを申し上げます。
 皆様は、昨年をふり返ってどんなことが頭に浮かんでくるでしょうか。年が明けてすぐに始まった新型コロナウイルス感染症第6波。2月24日のロシアによるウクライナ侵攻によって今も多くの人々が苦しみ、いのちを失っていること。多くの国で軍備増強の動きがあること。世界的な物価の上昇など、いのちが危機にさらされる状況が続いています。1年の初め、神の母聖マリアの祭日、また世界平和の日にあたり、例外なくすべての人が大切にされる社会の実現に向けて私たちが祈り、そして行動していくことができるよう、聖母マリアの取り次ぎを祈りたいと思います。
 他方、2022年はコロナ禍が続く中、教会を含む社会全体が工夫を凝らして活動を再開した年でもありました。新潟教区では5月に岡秀太神父の司祭叙階式が行われ、6月には寒河江で司祭の集い開催、7月には新潟教区としてのシノドス回答書が公表され、8月にはベトナム出身の青年の集い開催、10月には宣教司牧方針策定のための分かち合いを依頼する手紙が出されました。同じく10月に全教区を結ぶ教区信徒大会が行われ、11月からはミサの式次第が新しくなり、12月には青年の集いが行われました。いわゆる「コロナ後」という時が来るのを待つのではなく、今、できることを工夫して柔軟に行っていく姿勢をこれからも持ち続けていきましょう。

 

シノドスの旅

 2021年10月に始められた第16回世界代表司教会議(シノドス)は、教区における話し合いの期間が終わり、現在大陸レベルでの話し合いが進められています。コロナ禍の中ではありましたが、新潟教区でも各共同体で分かち合いが行われ、教区としての回答書を作成しました。教区の多くの共同体で、工夫して意見交換してくださったことを感謝いたします。回答書は教区のウェブサイトに掲載してありますので、まだご覧になっていない方はぜひお読みください。
 皆様からいただいた10の問いに対する回答からは、ともに歩む教会であろうとする時に直面する問題やジレンマ、喜びや希望が読み取れます。特に、問1の回答の冒頭にある「私たち(教会)が誰とともに歩まなければならないかを分かっていない人はいない。だが、ともに歩めていると感じている人は極めて少ない。高齢や病気により教会に通うことができなくなった信徒、様々な理由で教会を離れてしまっている人、心に病を抱えた人々、生活に困窮する人々、滞日外国籍信徒。これらの人々とともに歩まなければと感じながらも歩めていない現実がある」という一文は、ほとんどの共同体で直面している共通の課題であるようです。取り組むべき事柄は多くあり、困難に感じることもあるかと思いますが、話し合いを続けることで、ともに歩む教会としての旅路を進んでいくことができます。今年、新潟教区では宣教司牧方針を策定する予定です。現在そのための分かち合いが各共同体で行われていますが、どのような方針になるにしても、ともに歩む教会として取り組む方針になることは間違いありません。回答書を作って終わりではなく、今後とも様々な機会を作って話し合いを続けていただけたらと思います。

 

ともに歩む教会

 皆さんは、ともに歩む教会と聞いて、どのようなイメージを持たれるでしょうか。私はルカによる福音の15章にある、「見失った羊」のたとえを思い出します。100匹の羊を持っている人がもし1匹を見失ったら、99匹を野原に残して見失った1匹を見つけ出すまで探し回り、見つけて大喜びするというたとえ話です。私は以前、このたとえ話を「見失った1匹を大切にしてくれるのはありがたいが、実際には99匹を放っておいて1匹を探すのは無理だ」という気持ちで読んでいました。しかし、今から十数年前にモンゴルを訪問したことがきっかけになり、全く違う理解を持つようになりました。モンゴルには大草原にテントを立てて遊牧生活を営む家族が今も多くいるのですが、あるとき私は何百もの羊を水場へと連れて行く馬上の少年の姿を、移動中の車の中から眺めていました。そのとき、現地の人が「移動中に溝にはまってしまう羊もいるんだけど、大体いつも同じ羊なんだよ」と教えてくれたのです。そのときはただ、「へー、そうなんだ」と思っただけでしたが、後からふり返って二つのことに気がつきました。
 まず、いつも溝にはまってしまう羊もいれば、動きが遅かったり、早かったり、好奇心が強かったり、臆病だったりと、100匹の羊がいれば100の違った個性を持っているということです。見失った羊のたとえを読むと、99匹が良くて1匹が悪いというようなイメージを持ちがちですが、良い悪いでは無く、みんなそれぞれ個性を持って、ともに歩んでいるのです。
 二つ目の気づきは、羊飼いはそれぞれの羊の個性を知っているということです。この羊はいつもこの場所で溝にはまる。この羊は足が悪くて坂を上るのが遅い。この羊は臆病だから知らない人が近づくと逃げていく。羊飼いはそれをすべて知っていて、それぞれの羊に合わせて世話をし、羊たちも羊飼いのことを信頼しているのです。
 ともに歩む教会も、これと同じではないでしょうか。私たちは一人ひとり違った背景や個性を持っています。調子が良いときも、悪いときもあります。教会で集える人も、そうでない人もいます。それは良いか悪いかというようなことではありません。牧者であるキリストは、私たち一人ひとりを知っていて、それぞれに合わせて養い、導いてくれます。道を誤れば探し出してくれます。調子が悪ければ待ってくれます。まさに、ともに歩んでくださるのです。
 教会共同体に求められているのは、違いをなくしたり、何らかの問題につまずくことがないようにしたりするということではなく、たがいを理解し、違いや弱さを抱えながらも、ともに歩んでくださるキリストに信頼し、ともに旅を続けるということではないでしょうか。

 

社会の変化の中で

 ところで、先日あるお寺の住職のお話を聞く機会があり、次のような事を話しておられました。「仏教は檀家制度によって人々とつながってきたが、今はそもそも家族が別々に住んでいるし、実家に帰ってくることもあまりない。当然、墓参にも来ないし、寺とのつながりも希薄になる。人の生き方が変わっているのだから、これまでと同じ仕組みではお寺は成り立たない。これからは、地域にいる個人とつながり、共同体を作っていかなければいけない」
 確かに、人の生き方は変化してきています。教会がともに歩もうとするときに直面する課題も、人の生き方の変化に関連するものが多いように感じます。例えば、教区シノドス回答書の問4で「若者の減少と教会離れ」について触れられています。実際に、以前に比べて青年の人数は少なくなってきていますが、教会離れはどうでしょうか。教区信徒大会での活躍などを見ると、新潟教区の青年の教会活動はとても活発だと思うのです。
 最近、海外のシノドス報告を聞くことが何度かあり、こんな意見を耳にしました。「シノドスの歩みに青年が参加できない。青年の意見を聞くことができるようにシノドスの分かち合いが計画されていない。青年は日曜日に仕事があったり、普段からの教会の友人とのつながり方がインターネットを通してだったりして、日曜日のミサの時間に教会で集まるという、通常の教会での活動には参加できないことも多い。しかしそれは決して教会から離れているということではない。自分たちに都合の良い別の時間、別の方法で、工夫して集っている。『教会に青年がいない』と言うがむしろ逆で、『青年が教会活動しているところにこれまでの教会がいない』のだ」。なるほど、と考えさせられました。社会が変化し、人々の生き方が変化していく中、教会のあり方も変化していっています。その中では、だれが見失った羊であるのかと考えるのではなく、一人ひとりを尊重し、ともに歩むことが難しいと感じる人の話を聞き、新たな視点で共同体を見直すことが大切です。誰もがキリストに牧される羊としてそれぞれの場で生きているのですから。

 私たちは、神と人々に開かれてともに歩んでいく共同体となるために、牧者であるキリストが私たち一人ひとりを知り、ともにいてくださることに信頼したいと思います。私たちはキリストによってつながり、キリストによって一つの体を形成しているのです。
 また、信徒も、司祭も、司教も、日曜日に教会に来ることができる人もできない人も、聖霊の導きに信頼し、たがいに耳を傾け合い、たがいから学びましょう。
 そして、神の愛を伝えるという、すべての信者に共通の宣教の使命にともに取り組みましょう。

 現在行われている宣教司牧方針策定のための分かち合いが、ともに歩む教会となるための大切な一歩となるよう願っています。たがいに開かれ、福音をともに生きて参りましょう。皆様の上に神の豊かな祝福がありますようお祈りいたします。

2023年1月1日

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