復活の主日 日中のミサ

皆様、主の御復活おめでとうございます。今日の新潟は、昨日とはうって変わって素晴らしい快晴。真っ青な美しい空の元、御復活をお祝いしました。聖週間の間、特に様々な奉仕をしてくださった皆様に感謝いたします。以下、復活の主日日中のミサの説教です。

御復活は、本当に特別なときですね。普段、様々な事情があって教会に来ることができない人がいます。それでも、せめて御復活は教会に行きたいと、何とか仕事を調整して、何とか家族を説得して、何とか体調を整えて、何とか時間を作って、教会に集まります。いつも来ている人も、久しぶりに来れた人も、または、残念ながら来ることができなかった人も、特別な思いを持ってこのときを迎えています。皆さん、本当に、御復活おめでとうございます。

イエスの復活について、新約聖書は様々なエピソードを伝えています。それを読んでいて感じるのは、聖書が伝えようとしているのは、復活という出来事が、どういうものか、例えば、イエスの心臓がどのように動き出したとか、どのように起き上がったとか、そういうことではなくて、弟子たちや婦人たちが、どんな経験をしたか、ということです。

弟子たちと婦人たちの経験は、主に二つに分けられます。一つは、今日わたしたちが読んだ箇所で、空っぽの墓を見るということ。もう一つは、イエスが自分たちの前に現れるということです。

昨日の復活徹夜祭でもお話ししましたが、復活は常に十字架の死と一緒に受け止めるべき事です。喪失感、という言葉があります。家族や友人、恋人などの、大切な人、大切なペット、ひょっとすると、植物とか、もの、家、地域など、様々な、自分にとって大切なものをなくしてしまったとき、心にぽっかりと穴があいたような、心の痛み、心の傷を受けます。それを喪失感と言います。自分にとって大切なものは、すでに自分の生活、自分の人生の中で、自分を支える柱のような、土台のようなもので、それが急になくなると、自分がどうすればいいのか、どうやったら自分でいられるのか、分からなくなってしまうのです。

東日本大震災のとき、多くの人が大切な人を亡くしました。小さな子どもと一緒に避難しようとしたけど、子どもだけ流されてしまったおばあさん。家族の中で、自分だけ生き残ったお母さん。震災後数ヶ月の頃、何人もの方が「自分が死ねばよかったのに」と言っておられると聞きました。

弟子たちも、マグダラのマリアをはじめとする婦人たちも、同じような思いでいたのかもしれません。あんなに、ずっとついて行こうと心に決めて一緒に旅をしてきたイエス様を自分は見捨てた。イエス様は死んでしまった!自分はどうすればいいのか、全く分からない。自分が死ねば良かった。と考えたかもしれません。

空っぽになった墓は、弟子たちと婦人たちの心を表しているようです。自分の人生、自分のいのちを支える大切なものが、なくなってしまった。心にぽっかり穴があいてしまった。

そこに、イエスが現れるんですね。イエスが現れる様々な様子は、復活節の間の聖書朗読で読まれていきますが、今日読まれたヨハネによる福音書の続きでは、イエスはマグダラのマリアに現れます。マリアは墓の外に立って泣いています。そこにイエスが現れ、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを探しているのか。」と尋ねます。マリアはイエスを園丁だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が、あの方を引き取ります。」と言います。イエスが「マリア」というと、マリアの目が開き、それがイエスであることを悟ります。

イエスは、とても自然に、まるで穏やかな日常の一コマのように、マリアに現れました。昨日の復活徹夜祭で読まれたマタイの福音書では、イエスは「おはよう」と言って、婦人たちに現れました。壮大な、物々しい現れ方でなく、自分を殺した人々に復活の姿を見せつけるようなこともしません。ただ、自然に、イエスは現れます。それはきっと、弟子たちと婦人たちの心の穴を自然に埋めたでしょう。主は生きておられる。自分がイエスを見捨てたことも、十字架上で主がむごたらしく、恥辱にまみれて罵られながら死んだことも、すべての希望が失われたように感じたことも、すべてを超えて、神のいのちが息づいている。主は私とともにいる。私は、神のいのちの中に生きていて、私の中に、神のいのちが生きている。何も、恐れることはない。死すらも、恐れることはない。きっと、弟子たちと婦人たちはそんな経験をしたのだと思います。

皆さんは、人生の中で困難に直面したとき、人生の節目でどのように神のいのちに生かされてきましたか?復活節の間、ぜひそのことについて考えてみてください。そして、今、当たり前の日常生活の中で、どのように神のいのちに生かされているか、考えてみてください。神は今日も、とても自然に、あなたの名前を呼び、おはよう、と挨拶しておられるのです。

復活したイエスの手には、傷があります。復活は、魔法のようにすべての問題を解決してくれるようなものではありません。抱える問題が、たとえどうしようもなく大きく、重いものであっても、わたしたちは神のいのちに生かされているということです。だからこそ、わたしたちはイエスに倣って、困難にある人々と歩みをともにするよう、招かれているのです。主は、あなたのために死んで、復活し、いのちを与えてくださる!というとてつもない良き知らせを、福音を、世界中の人に告げ知らせるよう、招かれているのです。今日、復活の喜びを分かち合うとともに、世界中におられる、空の墓の中で泣いている人々のために祈りましょう。主が命を捧げてまで救おうとした人類、すべての人が尊重され、大切にされるよう、生きていきましょう。