聖金曜日 主の受難

新潟教会で主の受難の典礼が行われました。新潟教会で十字架の崇敬に使っている十字架は、聖園病院にあった聖心の布教姉妹会病院修道院が閉鎖になった時にいただいたもので、新潟教会の典礼にとてもしっくりときます。以下、説教からの抜粋です。

成井大介司教

皆さんは、自分が苦しいとき、どうしようもなく困っているとき、先のことが全く見えないとき、行くところがありますか。困ったときに行くと、心が落ち着く。そんなところがありますか?もし特になかったら、イエスの十字架の下に立つことをお勧めします。わたしにとって、イエスの十字架の下は、困難にあっても大丈夫、と感じさせてくれる、憩いの場です。

2021年の11月、青年の日に合わせて、新潟教区の青年たちがオンラインで集まりました。コロナ禍の真っ最中でしたので、実際に顔を合わせて会うことができない中、わたしは「国籍で分けず、みんなで準備して、みんなで実行してください」と注文を付けました。青年の皆さんは素晴らしい工夫をして、青年の日の集いを日本、ベトナム、フィリピンの皆さんで行いました。言葉があまり通じない中、行われた一つのプログラムは「わたしの十字架」という題で絵を描くというものでした。皆さん、思い思いに描いておられ、それぞれの十字架への思いがあるんだなあと感動したのを覚えています。わたしも描きまして、それがこの絵です。イエスの十字架の下に立ち、イエスを見上げる自分がいます。わたしにとって、十字架とは、その下に立って、見上げるものなんです。

十字架刑は、場合によって数日もの間苦しみながらもがき続けなければならない死刑の方法でした。肉体的な痛みも耐えがたいものだったと思いますが、いつまでももがきながら、一体いつまで苦しまなければならないのかと、精神的にも追い詰められる刑でした。そして、辱めです。下着一枚で高く掲げられ、人々から嘲笑されます。ほんの少し前、イエスを喜びのうちにエルサレムに迎えた人々は、先程受難の朗読で読まれたとおり、イエスを十字架に付けろと叫びます。

群衆の中には、祭司長やファリサイ派のように、イエスを積極的に殺そうとする人々もいましたが、自分には関係が無いと、関わろうとせずに見守る人もいたでしょう。どちらも、恐ろしい暴力です。積極的な攻撃も、無関心も、火のようにあっという間に広がり、人々を巻き込みます。十字架刑は、積極的にも、消極的にも人を殺すために群衆を一致させるもので、その矛先を向けられる側は震え上がるほど恐ろしいものです。

今日読んだヨハネの福音によると、イエスの十字架の下には婦人たちと弟子が立っていました。

自分の大切な人が十字架にかけられていて、その下に立つ。というのは、想像を絶する、恐ろしく、絶望的な状況だと思います。その人々を、苦しみながら見下ろすイエスの思いも、想像を絶するものがあります。全く希望がない。ただ、苦しみながら死を待つだけ。

しかしイエスを救い主だと信じる人にとって、十字架は死と敗北のシンボルではありません。どんなに深い暗闇、どんなに重い絶望からも希望を生み出す、いのちのシンボルです。

聖パウロは、このことをコリントの信徒への手紙の中で次のように述べています。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」十字架は、わたしたちにとって神の力なのです。

今日、全世界の信者が十字架の下に立ちます。それぞれの状況で、それぞれの思いを持って十字架の下に立つでしょう。ウクライナの人々は、もう3年目となった戦争のまっただ中で、どんな思いで十字架の下に立つでしょう。パレスチナの人々は、戦闘が続く中、イエスが生き、十字架に架かって死んでいった地にあって、どのような思いで十字架の下に立つでしょう。能登の人々はどうでしょう。皆さんはどうですか。皆さんは、十字架の下に立ち、何を思いますか。

イエスは、肉体的な痛みも、精神的な苦しみも、辱めも、人々から受ける恐怖も、すべてを受け止めます。人間的な弱さ、その最大のものである死も受け入れます。神の独り子であるのに、人となっただけではなく、最も苦しく、辛く、恥辱にまみれた死を通して、わたしたちを救ってくださるのです。そんなイエスの救いへの招きに対して、第2朗読でパウロは、「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」と呼びかけます。

十字架の下に立ち、イエスの救いへの招きを大胆に、しっかりと受け止めましょう。