聖木曜日 主の晩餐の夕べのミサ

聖なる過越の三日間が始まりました。新潟教区では、洗足式を行わないなどの制限はあるものの、公開の典礼を行っています。多くの皆様にとって、今年の聖週間は2年ぶりに参加する典礼になるかと思います。神がいつもともに歩んで下さることを感謝し、この大切な三日間を過ごしていけたらと思います。

新潟教会では司教司式で主の晩餐の夕べのミサが行われました。共同祈願では、コロナ禍に苦しむ人々のため、またミャンマーの兄弟姉妹のために祈りが捧げられました。以下は説教の原稿です。

この、主の晩餐の夕べのミサをもって、教会は典礼歴の頂点である聖なる過越の三日間を始めます。この三日間を通してわたしたちは、主の受難、死、復活を祝い、神の愛、救いの計画に、特別な典礼を通して触れるのです。わたしたちはコロナ禍による様々な規制の中でこの一年を過ごしてきました。ミサにあずかること、御聖体をいただくことがどれほど特別で有り難いことか、感じられたのでは無いかと思います。その思いを忘れずに持ち続けることができたらと思います。

聖木曜日は、過越の食事と互いに仕え合うことが大切なテーマになっています。

第一朗読では、イスラエルの民がエジプトから脱出する時にした過越の食事について教えられています。世々に渡って守るべき普遍の定めとして祝わねばならない。と言われているとおり、ユダヤ人の人々は今もこの、子羊を屠り、酵母を入れないパンを食べる過越の食事を毎年行います。

第2朗読でパウロは、イエスが弟子たちと共にエルサレムで、この過越の食事を行った時の様子を紹介します。ここに出てくるイエスご自身の言葉は、今わたしたちが感謝の祭儀で用いる言葉です。ここで、イエスは、パンを割き、ブドウ酒の入った杯をまわし、これは新しい契約。私の記念として行いなさいと言われました。旧約では、神は人々に掟を与え、それを人々が守る限り神は人々を守る、という契約でした。しかし、イエスは、自分自身が生け贄となることによってわたしたちの罪を償い、救いに招いて下さるという新しい契約を残して下さいました。つまり、わたしたちが約束事を守ったかどうかに左右される契約ではなく、神が一方的にご自分を犠牲にして与えて下さる契約です。この救いの約束を「私の記念として行いなさい」と、目に見える形で残して下さったのです。

初代教会のキリスト者にとって、この、イエスの過越の食事を記念し、実行することは特に大切なことでした。初代キリスト者はこの式を「パンを割く式」と呼び、信仰生活の中心にすえました。皆さんは、今の時代、今の生活、今の日常の中で、どのようにこの「新しい契約」を受け止めますか?

聖木曜日の福音朗読は、ヨハネの福音書から読まれます。これは非常に興味深いですね。四つの福音書のうち、ヨハネの福音だけに、イエスがパンを割き、ブドウ酒をまわす記述がなく、代わりにヨハネの福音だけに弟子たちの足を洗う記述があるのです。それだけ、この主の晩餐の祭儀では足を洗うというイエスの行動が大切な意味を持っているのです。

今日の福音朗読の最初に、「イエスは、弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とあります。その、愛する弟子を残して十字架に付けられる前に、弟子たちに最後に、どうしても伝えたいこととして、イエスは弟子たちの足を洗い、「あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。」「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」と言われたのです。残念ながら、今年はコロナ禍のために洗足式を行うことができませんが、このイエスが示して下さった模範について共に考えてみたいと思います。

まず、主が、わたしたちの足を洗い、清い者として下さっていると言うことです。自分の努力で清い者となるのは難しいことです。神が、わたしたちを洗い、清い者として下さるのです。このことは、しっかりと受け止め、大切にしなければいけません。神から清い者とされた自分自身を、尊い存在として大切にしてあげることが大切です。そして、他者をも、同じように、神から清い者とされた人として大切にするのです。

次に、互いに愛し合い、互いに仕え合うと言うことです。この世にあってわたしたちは、誰がどんな役職に就いているとか、誰が経験が少ないとかに関係なく、イエスがして下さったように、互いに仕え合うよう招かれています。それは、それは義務として仕えるのではなく、イエスが「弟子たちを愛し、この上なく愛し抜かれた」ように、愛からにじみ出て来る仕え合いです。教会共同体は、キリストを頭として、互いに愛し合い、仕え合う共同体として成長していくよう招かれています。

最後に、人を排除することはしないと言うことです。イエスはすべての人を救いに招いておられます。そして、洗礼を受けた人々は、キリストの体の一部です。わたしたちはともすれば、人間的な弱さから、「あんな人は教会に相応しくない。」と、感じることがあるかもしれません。しかし、その人も、キリストの体を共に構成しているのです。皆さん、考えてみて下さい。イエスは、イスカリオテのユダの足をも洗ったのです。このことは、ものすごく力強いメッセージをわたしたちに伝えていると思います。これから自分を裏切って十字架に付ける人の足を、イエスは愛のうちに洗ったのです。神は、理屈ではなく、理不尽なまでに人を愛されます。わたしたちは、その愛に信頼して、互いを尊重し、仕え合う共同体として成長していきましょう。

これから、わたしたちは感謝の祭儀の中で、最後の晩餐の記念を行います。教会は、長い歴史の中で、祈りの言葉一つ一つ、司祭と信徒の所作の一つ一つを、神の贖い、救いを現す典礼として育て、継承してきました。今日、改めて、主がわたしたちの救いのために残して下さった新しい契約、愛の秘跡を感謝のうちに受け止めていきましょう。