受難の主日ミサ

聖週間がはじまりました。この、一年の中で最も聖なる記念を行う一週間を大切に過ごしていきたいと思います。

聖週間には、様々なシンボルが用いられます。今日、受難の主日には、枝の祝別、エルサレム入城の朗読、枝の行列、そして受難の朗読が行われます。こうしたシンボルを通して教会が伝えてきた過越の神秘、十字架の死と復活をしっかりと受け止めたいと思います。

以下は新潟教会で行われた9:30と11:00のミサの説教です。なお、午後にはベトナム共同体のミサも行われました。

成井大介司教

今日わたしたちはコロナ禍のために枝の行列を行うことができませんでしたが、枝を手に持って、イエスをエルサレムに迎えた人々の気持ちを想像してみてください。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と声高らかに神を賛美してエルサレムに入城した弟子たちの思いを想像してください。人々に大歓迎されたイエスに危機感を募らせたファリサイ派の人々の気持ちを想像してください。そして、イエスの心を感じてください。

エルサレムの人々は、イエスを、イスラエルをローマから解放してくれる指導者として期待し、歓声を上げて迎えたと思います。今、この場面を想像すると、ウクライナの人たちのことが心に浮かびます。ミャンマーの人たちのことを思います。その他多くの、紛争や弾圧が絶えない地域の人々の事を思い浮かべます。もうあと6,7時間もすると、ウクライナで受難の主日のミサが行われていくでしょう。いったい、ウクライナの人々は、枝を手に持って、どのような気持ちでイエスのエルサレム入城の朗読を聞くのでしょうか。

イエスは、王として、軍隊を率いてエルサレムに入ったのではありません。十字架上の死を通して、この世のどんな権力も、悪も、暴力も、死すらもものともしない、復活の勝利をもたらしたのです。このとてつもない喜びの知らせが、どれほど人々を勇気づけ、希望を与えるでしょう。

弟子たちについて考えてみましょう。イエスは、宣教活動を始めてすぐに弟子を取り、ずっと一緒に旅を続け、今エルサレムに入りました。弟子たちはうれしかったでしょうね。自分たちの主が、こんなにも喜んで迎え入れられて。いよいよ王になる日が来たのだと感じて。そして、漁師であったり、徴税人であったり、熱心党であったりした、およそ、王となる方の弟子としてはちぐはぐな感じがする弟子たちはきっと、自分たちのことも誇らしく思ったことでしょう。ヤコブとヨハネなどは、イエスが王座に就いた暁には、自分たちをイエスの右と左に座らせてほしいと願っていたほどです。なおさらでしょう。

勘違いをしている弟子たちと旅を続け、勘違いをしている人に迎えられ、自分を殺そうと企む人が目の前にいる。そんな中、イエスはご自分に与えられた使命を果たして行かれます。その姿は力強い王ではなく、パウロが第2朗読で伝えるように、自分を無にして、僕の身分になり、人間として、しかもへりくだって、十字架の死に至るまで従順な姿です。このイエスを通して、復活という絶対的ないのち、勝利が与えられるのです。

わたしたちも、イエスと弟子たちのように、旅を続けています。ともに歩む旅。シノドスの旅。旅の途中では、困難なときもあるでしょう。恐怖に襲われることもあるでしょう。勘違いすることもあるでしょう。自分の無力さに絶望することもあるかもしれません。しかし、イエスはそんなあなたを必要としています。イエスが、神の愛とあわれみを示し、救いの喜びを告げ知らせるために、自分を裏切るような弱い弟子たちを必要としたように、イエスは今、あなたと旅を続けることを必要としています。どうかわたしたちが、死に打ち勝つ復活の希望を保ち、社会の中で喜びを告げ知らせる旅を続けることができますように。