2023年新潟教会主の降誕日中のミサ

昨日の夜の主の降誕のミサでは、聖書からルカによる福音書が読まれました。そこには、イエスの母マリア、父ヨセフが住民登録のためにベトレヘムに旅をしたこと。ベトレヘムには、二人が泊まる宿がなかったので、イエスは家畜のための餌箱に寝かされたこと、天使が羊飼いに現れ、救い主の誕生を拝みに行くよう告げられたことなど、とても具体的な状況が書かれています。

今日読まれた福音書は、ヨハネによる福音書で、全く違う視点から、神秘的な表現で神の独り子がこの世に生まれたことについて教えています。神秘的な表現は、出来事の奥にある意味や、思いを伝えるのにとても効果的です。神の独り子が人となってこの世に生まれてきたという出来事について、ヨハネがどのように伝えているか、見てみましょう。

「初めに言葉があった」
神の独り子のことが、神の言として描かれています。ここでいう言とは、ただ口から出てくる言葉に留まらず、知恵とか、理性とか、表現などの意味を持っているそうです。神の言葉。神の知恵。神の理性。神の表現。多少乱暴かもしれませんが、それは、簡単に一言で表せば、愛です。神の独り子、イエスは父なる神と、この世が造られる前から、愛のうちにともにいて、愛のうちにこの世を造られたのです。

「万物は言によって成った。成ったもので言葉によらずに成ったものは何一つなかった。」とあるとおり、この世界のすべてのものは、神の愛によって造られたとヨハネは教えているのです。造られる前のものを愛するというのはおかしな話しですが、でも、例えば、子どもが「推しの子」の星野アイの絵を描くとき、すごく思いを込めて、ものすごい集中して書きますよね。そしてできあがった絵は、大切な作品になります。つまり、この世界のすべては、神の思いが、神の愛が込められて造られたものなのです。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」
神が大切に造った、愛する世界に、神ご自身が人間となって生まれてきたということです。わたしたちの神は、外から眺めているだけでなく、自分自身がその中に入って行かれる方なのです。わたしはこの、神が人となる、という、理解しがたい出来事について考えるとき、いつも「神が人との境界線を越えてきてくださった」というように想像しています。

遠く離れたところにおられ、見ることも、触れることも、想像することすらできない神という存在が、神と人の間にある境界線を越えて、人間に理解できる様にこの世に来てくださり、わたしたちの目の前で、人の赤ん坊として生まれた。まさに、人間のことが愛おしくて、大切で、自分自身が人となり、救いに招いてくださったのです。

人間は、線を引きたがります。敵と味方。自分の気の合う人と、合わない人。自分の国と、違う国。自分と自分以外のすべての人。自分と神。そうやってまわりとの間に線を引いて、区別して、自分や自分の仲間を守ろうとする。ところが、そうすると自分と自分の仲間以外の人を敵にしてしまいます。また、他の人を通して神が示す真理に触れることができなくなります。結果、福音に書かれているように、自分自身を暗闇に閉じ込めてしまい、神も、周りの人も受け入れないような状況に陥ってしまうのです。

皆さん、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。「わたしたちの間」には、三つの間があると考えられます。

一つ目は、神と人間の間。神の独り子が人間として生まれてきたことによって、神とわたしたち人間の間にあった境界線が取り払われ、神がどれほどわたしたち一人一人を愛しておられるのかが示されました。わたしたちは、その愛を拒否して暗闇に閉じこもるのではなく、闇にあって輝く光を受け入れ、神の異なるよう招かれています。

もう一つは、被造物と人間の間。神は愛のうちにこの世界のすべてを造られました。人間だけでなく、世界のすべてです。ところがわたしたちは、人間が自然との調和のうちにしかいのちを繋げることができないことを忘れ、自分たちと自然の間に境界線を引き、自分たちの都合で自然を搾取し、破壊し、いのちのつながりの調和を崩しています。わたしたちは、自分の生きている世界を見つめ直し、線を引くのではなく、互いにつながっていることを認め、神が大切にされるものを自分たちも大切にして生きていくよう招かれています。

最後の一つは、人間と人間の間です。神の独り子は、ローマ帝国に占領されたユダヤの国に、それも、赤ん坊が生まれそうなのに泊めてくれる人すらいない、人とのつながりが壊れてしまったような中、生まれてきました。全能の神が、人の助けがなければすぐに死んでしまうような赤ん坊として生まれてきました。それは、どれほど困難で、絶望的な状況にある人も、神は救ってくださるということ、そして、力で人を従わせるような関係ではなく、何もできない弱さの中にこそ光る愛によって人とつながり、助け合うことを教えています。わたしたちは、自分の周りにある境界線を取り払って、人々、特に弱い立場にいる人との間に幼子イエスが宿られたことを思い、ともに歩んでいきたいと思います。

最後に、光についてお話しします。わたしは以前、パキスタンのラホールという北東の町にある、ムガール帝国の城塞に行ったことがあります。そこは、別名「鏡の宮殿」と呼ばれており、壁や天井に小さな、少し丸い表面の鏡のモザイクがちりばめられているんです。部屋を暗くしてマッチ一本すると、小さな鏡に反射して部屋全体が明るくなるんですね。

わたしたちは、イエスの光を反射する小さな鏡です。この世界のすべてのものは、神の愛によって造られました。その愛を受けて、一人一人が、少しずつ愛を反射する鏡なのです。イエスという、小さいけれども、強く、永遠に輝く光を一人ひとりが反射するんです。イエスの命を、イエスの希望を、イエスの悲しみを、イエスの喜びを、イエスの厳しさを、イエスの愛を、ささやかでも、少しずつ、一人ひとりが輝かして、世界に希望をもたらしていけたらと思います。幼子イエスの祝福が皆さんの上にありますように。