4月7日、復活の火曜日に88歳で神の御許に召された、新潟教区司祭、ペトロ高藪修神父様の通夜が昨日午後6時から、そして葬儀、告別式が本日午前10時から、カトリック新潟教会で行われました。
小教区、幼稚園、そして教区事務局と、様々な地域で、多様なお働きをしてくださった高藪神父様をしのび、多くの方が参加されました。高藪神父様の宣教司牧活動に感謝いたします。どうか、父である神の御許で安らかにお休みください。以下、説教です。
成井大介司教
通夜



葬儀






ペトロ高藪修神父様は、ご復活の火曜日、4月7日午後8時32分、新潟市内の高齢者施設で神様のもとへと旅立たれました。
高藪修神父様は、1938年、昭和13年、秋田市で生を受けました。1964年、司祭に叙階されます。第2バチカン公会議の開催中の叙階でいらっしゃいます。教会が、現代社会の大きな変化の中で、どのように、よりふさわしく、福音を宣べ伝えられるのかを模索し、変化していった時代です。そして、新潟知牧区が新潟教区に昇格し、初代教区長の伊藤司教様が着座されたのが1962年ですから、新潟教区になって2年後に司祭に叙階されたのです。まさに、世界の教会も、新潟教区も、激動の時代に司祭に叙階されたと言えると思います。
それから新潟、新発田、佐渡、上越の教会と幼稚園で宣教司牧に携わり、また佐藤敬一司教様が教区長として着任なさってからは、教区事務局長として12年務められました。その間、教区事務局長を務めながら、新発田、白根の主任司祭を兼任されました。どんなに忙しかっただろうと思います。また、私は一昨日菊地枢機卿様にお目にかかったのですが、菊地司教様が教区長の時代には、聖母学園の運営でずいぶんお世話になったと感謝しておられました。
高藪修神父様は、花園教会で主任司祭をされているころ、多発性の脳梗塞を発症されました。2010年からは高田の高齢者施設に住まれ、2020年、コロナ禍が始まる直前に新潟市内の高齢者施設に移られました。ご親族が遠くから頻繁に神父様を訪問され、お世話くださいました。新潟教区では、アンリ神父様がご聖体を携えて訪問してくださいました。
高藪神父様は1カ月少し前、高熱を出され、誤嚥性の肺炎が疑われるということで、大瀧神父が高藪神父様を訪問しましたが、ご聖体をいただくこともできたそうです。その後回復されましたが、だんだんと眠っている時間が長くなり、起きている時間を見計らって食事をとるという状況だったとのことです。そして、亡くなる数日前から食べることができなくなり、ほとんどの時間を眠って過ごされました。体調悪化の連絡がご親族からあり、亡くなる前日におご親族と大瀧神父が神父様を訪問、病者の塗油を授けました。その翌日には状態がよくなられたそうですが、その夜に高藪神父様は神様のもとへ行かれました。
私は、高藪神父様が新潟に移られた2020年の5月の終わりに新潟司教に任命され、7月に新潟に引っ越してきました。当時、コロナ禍1年目で、病院や老人ホームは家族ですら面会が難しい状況で、私はSkypeで高藪神父様と何度かお話をしました。ようやく規制が緩められ、対面でお目にかかれたのが、2021年2月5日です。私は、心配していました。新潟で働いたこともない、よそから来た新しい司教の自分をどんなふうに思われるだろうか、という心配です。「この度新潟教区の司教に任命されました。どうぞよろしくお願いします」とあいさつしたところ、笑顔で応えてくださいました。すごくホッとしたのを覚えています。
高藪神父様のことをよくご存じの、教会や幼稚園の方に、高藪神父様はどんな方でしたか?と尋ねると、帰ってくるのは「いつも笑顔でした」というお返事です。大瀧神父によると、高藪神父様は教会、幼稚園、教区事務局と、いくつも兼任されていたので、絶えず移動し、いつも動いておられたそうです。そんな神父様に対して、人々は、「忙しい神父様でした」ではなく、「いつも笑顔の神父様でした」という印象を持っておられる。素晴らしい宣教者、司牧者であられたんだなと思います。実際、私自身、神父様を高齢者施設に訪問して、その穏やかな笑顔に心を癒されていました。
去年の後半くらいからでしょうか。訪問し、話しかけても、時によっては、あまり反応が無いことがありました。しかし、話しかけて、聞いておられるのかどうかわからないようなときでも、「神父様、ご聖体をいただきますか」とお話しすると、必ず反応され、十字を切り、口の中で祈り、ご聖体をいただき、その後しばらく目を閉じて祈っておられました。そのたたずまいは、司祭であるということが体の隅々に染みついているというのでしょうか。祈る姿勢、ご聖体に対する尊敬の表し方など、ああ、司祭だ、と感じさせるものがありました。
アシジの聖フランシスコに関連して伝わっている、次のような言葉があります。「いつも福音を宣べ伝えなさい。必要なときには言葉を使いなさい。」
わたしは、高藪神父様が雄弁に説教をされた方なのかどうか、知りません。私の知る神父様、つまり2020年からの高藪神父様は、言葉をほとんど話されませんでした。しかし、笑顔によって福音を宣べ伝えておられました。ベッドの上におられても、そのたたずまい、立ち振る舞いで、司祭として福音を宣べ伝えておられました。
2年前の7月、高藪神父様の司祭叙階60周年の記念ミサをこの聖堂で行い、その後司教館でささやかなお祝いの昼食会を行いました。その昼食会の最後に、高藪神父様に祝福をお願いしました。神父様は、ささやくようなかすれる声、ゆっくりと動く手で、時間をかけて祝福を与えました。その場にいたすべての人が、その祝福の言葉に全神経を集中して耳を傾け、かたずをのんで手の動きを見守りました。祝福を与える側も、祝福を受ける側も、全身全霊で神の祝福をいただこうとしていたのだと思います。あんなに、神の恵みを豊かに感じることは人生の中でそうそうあるものではないと今も思っています。司祭職をいただいた一人の人間として、大切なことを教えていただきました。
高藪神父様は、司祭として62年活動されました。62年の間、何万回も「これは私の体である」と唱え、何万回もご聖体をいただき、延べで何万という人々にご聖体を授け、祝福を与えてこられました。その口に、その手に、その足に、その心に、司祭という生き方がしみ込んだ高藪神父様は、まさに「いつも福音を宣べ伝えなさい。必要なときには言葉を使いなさい。」という生き方を最後まで貫かれました。
ヨハネの福音書でイエスはこう言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」復活の火曜日に神のもとへと旅立たれた高藪神父様。わたしたちに、復活のいのちへの希望を教えてくださっているかのようです。司祭は、祭壇でキリストの死と復活、過ぎ越しの神秘を記念する、感謝の祭儀を祝います。司祭が「これはわたしのからだ」と言うとき、「これはわたしの血」と言うとき、それは過去の出来事をただ記念しているのではなく、復活された主がパンの形で私たちの間におられ、食べられ、いのちを与えてくださるのです。ご自分のいのちを捧げることによって、私たちにいのちを与えてくださった、主のあふれる愛に、わたしたちは満たされます。高藪神父様は、司祭として、復活のキリストと常にともにおられました。
父である神よ、あなたの独り子、キリストの死と復活に、司祭として日々接し、分かち合ってこられた高藪神父様を、あなたのいつくしみのうちに受け止めてください。神父様があなたの御許で、安らかな笑顔で、憩うことができますように。
また、残された私たちが、神父様を通して頂いた数々の恵み、模範を受け止め、生かし、主の復活を、生き方を通して証しする者となることができるよう、祝福し、導いてください。私たちの主、イエス・キリストによって。アーメン。