第一回司祭評議会と聖香油ミサ

新潟教区では毎年聖週間の火曜日から水曜日にかけて、司祭評議会が行われます。司祭評議会は、教区で働く司祭を代表する司教の諮問機関です。司祭評議会と、来月末に行われる宣教司牧評議会の二つの評議会を通して、新潟教区の司祭、修道者、信徒が司教に助言するという組織構成になっています。司祭評議会のメンバーは、新潟教区にある五つの地区から二人ずつ、数名の司教推薦司祭、そして司教総代理と司教によって構成されています。今回が私が着任してから最初の会議で、昨年度の報告、今後の活動方針策定の方法、委員会編成などについて幅広く意見交換しました。来月の宣教司牧評議会に諮った上で、教区全体として活動方針について意見交換を進めていきたいと考えています。

今日は聖香油ミサが新潟教会で行われ、18名の司祭、1名の助祭と司教で共同司式が行われました。聖香油ミサは、典礼に用いられる油を祝福、聖別し、また司祭職の制定を記念するミサです。そしてこのミサの中で、司祭は自分が叙階された時のことを思い起こし、約束を更新します。この機会に、新潟教区で宣教司牧に携わってくださる神父様方に感謝いたします。また、司祭団としての兄弟の交わりのうちにともに歩めることを感謝いたします。そして、司祭のために祈り、支えてくださる皆様に感謝いたします。以下は、聖香油ミサの説教です。


皆さん、わたしたちのお隣の国、フィリピンでは、今日、キリスト教到来500周年を祝っています。1521年3月31日、フィリピンのレイテ島の南に浮かぶ小さな島、リマサワ島で、マゼランとその部下たちは、島の人々とともに、旅の同行司祭のPedro Valderrama神父司式のミサにあずかりました。これがフィリピンで最初に捧げられたミサで、それからちょうど今日で500年になります。フィリピン出身の兄弟姉妹の皆様、500周年のお祝いおめでとうございます。隣人として、主における兄弟姉妹として、お祝い、お祈り申し上げます。

この、特別な時をお祝いするために、フィリピンのカトリック教会は ”gifted to give”というテーマを設けました。単純に訳すと、「与えるために与えられた」というテーマです。私、個人的にこのテーマがとても好きで、たったの三つの単語で、こんなに大切なことを示して素晴らしいな、と思っています。このテーマは、フィリピンの人々が、与えられた信仰を喜びのうちに受け止め、それを育んできた、そして、今その信仰を他者に分かち合っていくよう招かれていると言うことを示すものです。新潟教区には多くのフィリピン出身の方がいらっしゃいますが、彼女たち、彼らは、まさに信仰の伝達者として、宣教師として生きておられます。ともに教会共同体として歩むことができる恵みに、心から感謝しています。

さて、今日わたしたちが行う聖香油ミサでは、三つの油を祝福、聖別し、司祭職の制定を記念します。このミサには教区中から司祭が集まり、共同司式をしますが、これは司教と司祭の深い結びつき、一致を表し、これによって司祭職の充満が示されます。

古くから、油は特別な意味を持って使われてきました。病者の油は、病人の癒やしと罪のゆるしのため。洗礼志願者の油は、志願者が洗礼を受け、神の子として新たないのちに生きる前に、悪霊の力から開放され、罪を放棄することができるように。そして聖香油は、洗礼、堅信、叙階の秘跡のため。聖霊をいただくことのしるしとして聖香油の塗油を受けますが、それは、わたしたちがキリストのために聖別され、キリストの使命を果たすために生きるよう招かれたということです。信徒全員がこの聖香油を受け、キリストの使命を生きるわけですが、その中で司祭は特別な使命に招かれています。主の晩餐を祝い、罪のゆるしを与えるという、特別な使命です。

司祭の皆さん、この一年、コロナ禍にあって、司祭としてどのように自分の使命を生きてこられたでしょうか。公開のミサができなくなり、聖香油ミサも無くなり、ゆるしの秘跡を聞くために人と会うことができなくなった時、おそらく、自分が司祭であるということの意味について、深く考えさせられたのではないかと思います。

教皇フランシスコは、2019年の聖香油ミサで次のように説教しました。

親愛なる兄弟の司祭の皆さん、私たちの、福音における模範は、これら、主の塗油によって立ち上がり、復活させられた “人々 “であり、素顔の “群衆 “であることを忘れてはなりません。彼らこそが、私たちの中で聖霊による塗油を完成させる人たちです。これらの人々に塗油するために、わたしたちは塗油されたのです。

つまり、わたしたち司祭自身が、福音朗読にある、貧く、捕らわれていて、目が見えない、圧迫されている存在であるということです。しかし、主がわたしたちに福音を告げ知らせ、油を注いで、恵みを与えてくださった。それは、決して自分のためではなく、他者のため、貧しく、捕らわれ、目が見えず、圧迫されている人たちのために与えられた恵みだと言っておられるのです。繰り返します。わたしたちは、これらの貧しく、捕らわれていて、目が見えない、圧迫されている人の間にあり、これらの人に福音を伝えるために福音を受け、油を注ぐために油を注がれたのです。このミサを通して、そして約束の更新を通して、わたしたち自身が神から受けた恵みに感謝し、その恵みを人々に分かち合っていくことができるよう、導きを願いたいと思います。