受難の主日

春の穏やかな青空の中、新潟教会で受難の主日のミサが行われました。今年は3年ぶりに枝の行列が行われ、聖週間初日の典礼を豊かに祝うことができたのは大きな喜びでした。以下、説教です。

今年、新潟教会では3年ぶりに枝の行列を行いました。教会の外に集まって、枝を手に持って、イエスのエルサレム入城の福音朗読を聞いて、歌いながら聖堂に入りました。皆さん、どのように感じましたか?久しぶりでうれしいと感じたでしょうか。特に何も感じず、自然に行列したでしょうか。私にとっては、新潟教会で初めての枝の行列で、とても新鮮で、気持ちが高ぶるようなときでした。

イエスは、目的を持ってエルサレムに入りました。捕らえられ、弟子たちに裏切られ、不正な裁判にかけられ、十字架につけられて殺されるためです。弟子たちの目的は、それぞれだったかもしれませんが、おそらくイエスがエルサレムで政治的、社会的なリーダーとなり、自分たちもイエスとともに活躍するという目的を持っていたのではないかと思います。

わたしたちは、どうですか?何か、目的がありますか?枝を持って、福音を聞いて、行列して、歌って、イエスとともに、人々とともに歩いて、聖堂に入っていく。何のためですか?ただ受難の主日の典礼だから?それでは少し足りないと思います。

主の救いのわざを賛美し、その愛に感謝するのとともに、私が大切だと感じている目的は、自分はイエスについて行くのだ、という思いを新たにするということです。弟子たちはずっとイエスについて行きました。旅を続け、エルサレムに入って行きました。そのように、自分もイエスについて行くのだ。自分がどんな人生を歩むにしても、たとえ道につまづいても、この方についていけば、大丈夫。そんな思いを新たにするためだと思います。

自分は、イエスのすべてを理解しているわけではない。イエスとともに歩むのにふさわしいような、正しく、立派な人間でもない。でも、イエスについていけば、イエスは道を示してくれる。私の足りなさを承知の上で、歩みをともにしてくれる。イエスの後についていけば、わたしは安心できる。そんな思いを持って、行列をするよう招かれているのではないでしょうか。

イエスについて行くなんて、私にはできない。私はふさわしくない。他にもっとやりたいことがある。そうやって、わたしたちはイエスと自分との間に溝を、壁を、作りがちです。しかし、イエスは、その溝を埋め、壁を壊してくださるんですね。神と人という、大きな違い、大きな隔たりをイエスは無くしてくださった。イエスは、今日の第2朗読にあるように、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

こうして、イエスの方から私のところへ来てくださるからこそ、私はイエスについて行ける。回心できる。そういうことなのだと思います。

この3年間、わたしたちは、人と距離をとり、壁を作ってきました。感染症を恐れるということが、知らない人や、県外、外国の人を疑うということにつながっていきました。さらに、戦争が起き、自分と主義主張が違う人との間に壁を作り、力によって無力化するという考えが当たり前のことのように語られるようになってきました。イエスはこのような社会をどのようにご覧になっているでしょうか。受難の朗読の中で、祭司長たちはイエスを侮辱して言います。「他人は救ったのに、自分は救えない。」まさに、イエスの生き方、救いの示し方というのは、他者の救いのために自分の命を捧げる生き方です。わたしたちは、その方について行こうとしているのです。

少し、沈黙の時間を取って、自分が皆さんとともに、イエスについてエルサレムに入っていく様子を想像してみてください。そして、自分の日常生活の中で、イエスについて行くとはどういうことなのか、考えてみてください。