2026年新潟教会 主の受難の祭儀

過ぎ越しの聖なる三日間も二日目となりました。昨日の雨はやみ、今日の新潟は晴天。穏やかな春の聖金曜日となりました。新潟教会では、19時から主の受難の祭儀が厳粛な雰囲気の中、行われました。盛式共同祈願では、戦争や紛争で犠牲となった人々のためにも祈りがささげられました。以下、説教の抜粋です。

主の受難という出来事は、今を生きる私たちにとっても、非常に意味のある出来事です。神の独り子は、2000年前の人々に向けてのみ、死んで復活されたのではなく、今、ここにいる私たち、そして再臨の時に至るまで生まれてくる人々のためにも、死んで復活してくださったからです。

教皇レオ14世は、受難の主日の説教で、次のように語られました。少し長いですが、読ませていただきます。

 イエスは〈平和の君〉として、わたしたちの苦しみを負い、わたしたちの罪のために刺し貫かれたとき、「口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」(イザ53・7)。イエスは武器をもたず、自分を守らず、いかなる戦いも行われませんでした。イエスは神の優しいみ顔を示しました。神はつねに暴力を拒絶します。自分を救う代わりに、十字架に釘づけにされます。それは、人類の歴史のあらゆる時間と場所に立てられたすべての十字架を引き受けるためです。

 わたしたちのために十字架につけられたイエスを仰ぎ見るとき、わたしたちは十字架につけられた人類を見いだします。わたしたちはイエスの傷のうちに、現代の多くの人々の傷を見いだします。わたしたちはイエスが御父に向かって上げられた最後の叫び声の中で、打ちひしがれた人、希望を失った人、病める人、孤独な人の嘆きを耳にします。何よりもわたしたちは、暴力に抑圧されたすべての人、すべての戦争の犠牲者の悲嘆の声を耳にします。

 平和の君であるキリストは、十字架上で再びこう叫びます。神は愛です。憐れみをもってください。武器を捨ててください。あなたがたが兄弟であることを思い出してください。

「人類の歴史のあらゆる時間と場所に立てられたすべての十字架を引き受けるため」、イエスは十字架で釘づけにされました。

十字架のもとに佇み、我が子の亡骸をその手に抱いた聖母マリアをはじめ、歴史の中で、おびただしい人々が傷つけられ、苦しみあえぎ、暴力に苦しんできました。今、この時、イエスは、この世界で苦しむ人々とともに苦しんでいます。イラン、レバノン、ガザ、イスラエルをはじめとする中東の人々。4年も戦争が続いているウクライナの人々。スーダン、コンゴ、ミャンマーなどで苦しむ人々。ここ新潟においても、人としての尊厳を尊重されず、傷ついている人が多くいます。その、すべての、一つ一つの十字架をイエスは引き受けておられるのです。

皆さん、私たちはこれから、十字架の崇敬を行います。十字架に向けて行列を行い、十字架のもとに立ち、主の受難を心の中で思いめぐらします。

皆さん、今日、世界中の教会で、十字架のもとに人々が立ちます。世界中の人々が自らの罪を思い、神の愛の深さを思い、そして重い十字架を担わされている人々とキリストがともにおられることを思います。

皆さん、世界の人と心を合わせて、心を新たにし、神の愛に、神のいのちに感謝し、そして苦しみのただなかにある人々のために祈りましょう。

虚偽の罪を押し付け、武器で傷つけ、辱め、殺すことでは、平和をもたらすことはできません。自らを傷つける人にもいつくしみのまなざしを向け、自らを見捨てる人を励まし、全ての人のために自分のいのちを捧げるのがキリストの平和です。この平和を与えられているものとして、今日、世界の人々とともに、平和を生きる思いを、十字架のもとで新たにいたしましょう。