2026年聖体奉仕会マリアンデー

5月16日(土)、秋田市の聖体奉仕会でマリアンデーが行われました。合計で200名ほどの方が日本各地のみならず、海外からも参加され、実に豊かな巡礼の時となりました。今年は駐日教皇大使、フランシスコ・エスカランテ・モリーナ大司教様がご参加くださり、ミサでは説教、そして拝領祈願の後にメッセージをいただきました。感謝しております。プログラムは聖体賛美式、講話、聖母行列、昼食と休憩をはさんでミサという流れ。昨年は雨で聖母行列をお聖堂の中で行いましたが、今年は素晴らし晴天に恵まれ、恵みあふれるときとなりました。以下、わたしが担当した講話原稿の要旨です。40分の講話で、三つのテーマに分けてお話ししました。

成井大介司教

1. 巡礼について

第2バチカン公会議は、教会は「旅する神の民」であると表現しましたが、聖書の中においても、神の民はつねに「旅する民」でした。アブラハムは、神に呼ばれて故郷を出発しました。モーセはイスラエルの民を率いて、荒野を歩き続けました。イスラエルの人々は、毎年エルサレムへと巡礼の旅をしました。少年イエスも、両親とともにエルサレムに巡礼されました。エマオへの旅で、イエスは二人の弟子に寄り添いました。旅は、常に神がともにおられることを改めて感じ、心に思いめぐらすときです。

巡礼は同時に、自分を神に明け渡すときです。日常を離れ、自分の住んでいる場を離れ、旅に出ると、自分の知らない人、違う文化や習慣、自分の望み通りにいかない状況などに出会います。それはある意味で、人生の縮図ですね。人は、様々な戸惑い、困難、試練、挫折に直面することによって、それでも必ず神が導いてくださる、たとえ自分の力、能力、財産、立場などが何の役にも立たなくても、神がなんとかしてくださる、という真実に自分を明け渡していくのです。逆に、自分の力、能力、財産、立場にしがみつくのをやめ、解放されていく旅と言うこともできるでしょう。

巡礼について考えるとき、私の修練長が教えてくれたボートの話を思い出します。人生というものは、ボートをこぐようなもので、後ろを向きながら進んでいくんだという話です。ボートは自分の後ろに向かって進んでいくので、行く先のことは見えません。でも通ってきた道のりは全部見えます。これまで歩んできた道を確認することで、目的に向かって方向修正することができます。

目指す目的地はボートに乗り込む前に決めます。わたしたちの目的地は、神です。私たちは1分先のことすらわかりませんが、人生という旅を振り返ると、自分が神に向かって歩んでいるのか、道をそれているのか、わかるのです。そして、自分の人生のあの時に、実は神が導いてくれていたんだ、とか、実はずっとともにいてくださったんだと気が付きます。今日の巡礼も、自分の歩んできた道を振り返る時になればと思います。

2. 聖母マリアの模範について

さて、次に聖母マリアの模範についてお話ししたいと思います。

マリア御自身も、巡礼者でした。受胎告知を受けた後、マリアはすぐにエリザベトのもとへと旅立ちました。妊娠した身で、山道を歩いて旅しました。自分が神の独り子を身ごもった喜びと不安を抱えながら、年老いたエリザベトのために出かけました。マリアは幼子イエスを抱いてエジプトへ逃げました。少年イエスを探して神殿で発見しました。なにより、マリアは十字架を担いで歩くイエスに従って歩き、最後まで十字架のもとにおられました。

これらのマリアの旅には、いつも中心にイエスがいます。マリアの生き方、マリアの祈り、マリアの人生は、常にイエスに向かっていたのです。それが、マリアが常に、自分に起こること、イエスに起こることを心に留め、思いめぐらしていた、ということです。そして、イエスを中心にした生き方を日々歩む中で、「はい」と言い続けたのです。マリアは、私たちの巡礼の模範です。人生の模範です。

カナの婚礼を思い出してみたいと思います。「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」マリアはイエスとともにいて、イエスの思い、イエスの行いがなされるように、気を配っていました。繰り返しますが、マリアにとって、いつもイエスが中心です。私たちはマリアに取り次ぎの祈りを捧げますが、その祈りは常に、マリアを通してキリストに向けられています。マリアご自身が、いつも御独り子を見ておられたからです。

マリアの取り次ぎによって、キリストにささげられる祈りについて、思い出すことがあります。ポルトガルで2023年にWYDがありましたが、その時私は、コインブラという、聖アントニオがフランシスコ会に入会した町でホームステイをさせていただき、旧市街地を案内していただきました。目抜き通りを歩いていた時、ホストファミリーの方が私を呼び、建物の壁にはめ込まれている青いタイルの絵について説明してくれました。十字架にかかっているイエスの足元でマリアが祈っています。そして、その下に、煉獄の炎の中で苦しむ人が祈っている絵です。その下には、P.N.A.M.という4文字から始まるアルファベットの頭文字が書かれています。これは、Pater Noster (主の祈り)と Ave Maria(アヴェ・マリアの祈り)の略だそうで、「この道を通る人は、煉獄の魂のために、主の祈りとアヴェ・マリアの祈りを唱えてください」という意味だそうです。この絵は数百年もそこにあって、道行く人が十字架上のイエスを見上げて祈るマリアに心を合わせ、煉獄の魂のために祈ってきました。

絵も素晴らしいですが、祈りが染みついているというんでしょうか、観光客がひっきりなしに行き来する道にあって、何百年もの間、人々が足を止めて、見知らぬ煉獄の魂のために祈りを捧げてきたことに感動しました。神への信頼、会ったこともない、すでに亡くなられた人を心にかけるやさしさがそこにはありました。散歩や買い物、友人と酒を飲みに行く途中、日常の一部としての祈りです。こうやって、神と、死者と、自分の日常がすごく身近に、自然にあって、つながっていて、マリアの取り次ぎがあって、毎日が回っている。世界が回っている。そんなことを感じさせてくれる絵、そして場でした。

マリアが、自分の日常生活、人生の中で、いつもイエスを中心において、イエスに対して「はい」と応えて人生の旅を歩まれたように、わたしたちもまた、マリアを模範として、イエスを人生の中心におき、イエスに対して「はい」と言って、日々のあたりまえの生活を、人生を生きる。そう招かれているのだと思います。

3. 秋田のマリア像にまつわる出来事について

さて、今日、こうして巡礼に来ておられる皆様は、50年前にこのマリア像に関連して起こった不思議な出来事について、体験された方も、人から聞いたり、本で読んだりした方もおられると思います。

このマリア像は、1963年に造られました。アムステルダムの、すべての民の御母と呼ばれる像を模して造られたものです。1973年ごろから、この像に関連した不思議な出来事が見られるようになったそうです。例えば、像の手に十字の形の傷ができ、そこに血のようなものがにじみ出る。汗のように像が濡れる。マリア像や、ご絵、ロザリオなどが良い香りを放つ。涙が流れる(1975年から1981年まで、101回)など。なお、涙は脱脂綿で拭き取られ、専門の機関で調査され、ヒト体液と鑑定されました(1981年)。特に涙は、当時のすべての聖体奉仕会本部修道院所属会員をはじめ、延べ約2000人、実人数で約500名の巡礼者によって目撃されました。

そして、多くの人々が、秋田のマリア像に関連して不思議な出来事を経験しました。病気の癒し、長年子どものいない夫婦に子どもを授かる、ひどい事故に遭うが助かるなど様々ですが、大切なのは、これらの当事者が、それぞれの出来事を秋田のマリアの取り次ぎのおかげと信じており、その出来事をきっかけに、豊かな信仰生活を過ごしておられるということです。

さて、当時の新潟教区長、伊藤庄治郎司教は、この出来事に関してバチカンの教理省に相談し、日本における2回の調査委員会の調査を経て、最終的に1984年4月22日づけで教書を出しました。以下、結論の部分を抜粋します。

1、これまで調べたところによると、秋田市添川湯沢台の聖体奉仕会の聖母像に関する一連の不思議な現象に、超自然性がないと否定することはできません。また、信仰と道徳に反することを見い出すこともできません。

2、従って、ローマ聖座より最終判定が示される時まで、本教区内において、秋田の聖母に対して崇敬をあらわすことを禁じません。

なお、ローマ教座が秋田の出来事を肯定的判定を示したとしても、これは私的啓示であって、信じなければならない義務はありません。この義務のあるのは公的啓示(これは最後の使徒の死をもって終っている)だけです。

この二つの点について解説します。

1の、「超自然性がないと否定することはできない」という表現ですが、これは少しあいまいな言い回しで、2重否定で「超自然性がある」という意味にも、「超自然性がないと言い切ることはできない」という意味にも取ることができます。

ただし、これは昨年もこのマリアンデーでお話ししましたが、バチカンの教理省は2024年5月に出した『超⾃然現象とされるものの識別⼿続きのための規則』において、次のように教えています。

『超⾃然現象とされるものの識別⼿続きのための規則』のいくつかの大切なポイント

1.        神が啓⽰しようと望んだことはすべて、⾁となったみことばである御⼦を通して余すところなく啓⽰された(公的啓示)。それゆえ、キリストの再臨まで、いかなる新しい公的啓⽰も期待すべきではない。

2.        教会は、超自然的現象であるかどうかということは基本的に判断せず、信仰に反することがあるかどうかを判断する。

3.        聖霊は、信仰の特別な経験を与えることがある(私的啓示)。私的啓示の目的は、イエス・キリストによって完全に表された、唯一の公的啓示によって示されたことをより豊かに⽣きるのを助けることにある。

これらの点を見れば、超自然性がうたがわれる不思議な出来事を適切に、賢明に、そして豊かに受け止めるためにどのような意識が求められるのかは明らかです。私たちが信仰を深め、キリストの福音をより豊かに生きることこそが目的であり、不思議な出来事そのものが目的になったり、独り歩きしてはならないのです。

伊藤司教の教書の二つ目の点は、「ローマ聖座より最終判定が示される時まで、本教区内において、秋田の聖母に対して崇敬をあらわすことを禁じません」というものです。ローマ聖座はこれまで、秋田の聖母について何の判断も下していません。伊藤司教が1984年に出したこの二つの決定が、現在のカトリック教会の、公式な立場です。つまり文字通り、新潟教区において秋田の聖母に対して崇敬を表すことが禁じられていないということです。これは、他の教区では禁じられている、という意味ではありません。カトリック教会では、教区長がそれぞれの教区内の事柄について決定を下します。逆に、他の教区のことに関して決定を下すことはできません。それでこのような表現になりますが、教区長によって禁じられない限り、自由に崇敬を表すことができます。

わたしは、2024年の教理省規則に従い、秋田の聖母の出来事が超自然的かどうかということについて言及しません。世界には多くの聖母に関連する巡礼地があります。病者のために祈ったり、平和のために祈ったり、若者が集って祈ったりする、素晴らしい信仰と司牧の実りがあります。それは聖霊の導きの実りであり、不思議な出来事が、イエスが人類に示された救いのために奉仕しているということです。

同じように、この聖体奉仕会にも毎年とても多くの巡礼者が来られます。この美しい自然、日本文化にとけこんだ聖堂、ご聖体とマリア像の前で祈り、人生を振り返り、神に自分を明け渡し、マリアの取り次ぎによってイエスを生活の中心に置き、キリストの福音をより豊かに生きる人々が大勢おられるのは、素晴らしいことです。これからも多くの方がこの巡礼地を訪れ、信仰生活を豊かにするためにお役に立てたらと願っています。

午後にはマリアンデーのプログラムは終わります。しかし、人生という巡礼は続きます。家族のもとへ帰り、悩みや疲れの中で、イエスを中心にして福音を生き続ける。その日常の旅こそが、最も大切な巡礼です。最後にアヴェ・マリアの祈り唱えてこの講話を終えたいと思います。