世界広報の日

日本の教会では、復活節第6主日に世界広報の日を祝います。教皇フランシスコは毎年この日のためにメッセージを発表しますが、今年は「心の耳で聴く」というテーマで、対話における聴くことの大切さを訴えています。神に、自分自身に、社会に、教会の中で、耳を傾けることをわかりやすく教えてくださっていますので、ぜひご一読ください。

シノドスの歩みが始まっています。互いに耳を傾けるよい機会となるよう祈りましょう。交わりは作戦や計画の産物ではなく、兄弟姉妹が互いに耳を傾け合うことで築かれるものです。合唱と同じで、一致に必要なのは一本調子な画一性ではなく、多種多様な声音、多声音です。しかも合唱の各声は、他の声を聞きながら、合唱曲のハーモニーを意識しつつ歌われます。このハーモニーは作曲家が編み出したものではあっても、その実現は、全体と一人ひとりの声による合唱次第なのです。

第56回「世界広報の日」教皇メッセージ(2022.5.22)

MESSAGE OF HIS HOLINESS POPE FRANCIS FOR THE 56th WORLD DAY OF SOCIAL COMMUNICATIONS

ところで、昨年私は長崎教区広報委員会から、長崎教区報のために「インターネットを通して発信しているメッセージはどのような思いで伝えているのか」というテーマの原稿を依頼され、以下のような文章を書きました。転載許可をいただきましたので、紹介いたします。

成井大介司教

 

受けた福音を伝えるために

新潟教区司教 成井 大介

長崎大司教区の皆様、遠く新潟よりご挨拶申し上げます。このたび教区報の原稿の依頼をいただきまして、大変恐縮しております。ご依頼いただいたテーマは、ウェブサイトやユーチューブ(YouTube)、フェイスブック(Facebook)など、インターネットを通して発信しているメッセージは、どのような思いで伝えているのか、というものです。ご参考になるか分かりませんが、普段から発信するにあたって個人的に感じていること、大切にしていることなどを書いてみたいと思います。

私的なことで恐縮ですが、私は子どもの頃5年ほど家族とインドネシアに住んでいました。幼稚園1年、小学校4年の期間を向こうで生活しましたが、日本人学校に通ったのでインドネシア語はほとんど話せませんでした。つまり、周りの人と言葉が通じないのが普通。言葉が通じなくても遊んだりコミュニケーションが取れて当たり前という環境で育ったのです。近所の人と一緒にバナナチップスを食べたり、イスラム教のお祝いの日に近所で山羊を屠るのを見に行ったり、家の前の通りにやってくる猿回しを見に行ったりと、当然ですが、普通に日常生活を送っていました。こうした背景から、私は人とコミュニケーションを取る時に言葉だけでなく、気持ち、笑顔、興味、一緒に何かを食べたり感じたりすることなどを重要視する傾向があります。そんな私にとって、コロナ禍で始まったリモートで様々なことを行うという生活は、なんともしっくりこない、落ち着かないものでした。

叙階式にて

私は去年まで、ローマにある神言会の総本部で5年ほど働いていました。昨年の5月、福音宣教省から新潟司教の任命を伝えられた時の驚きは、言葉に表しようがありません。しかし、新潟教区の人々の驚きはもっと大きなものだったでしょう。何せ、新潟教区で働いている司祭でないどころか、日本にすらいないどこの誰とも分からない司祭が自分たちの教区の司教に任命されたのです。通常でしたら叙階式が信徒の方々との良い顔合わせの機会になるのだと思いますが、それもコロナ禍のために、60人ほどに限定した式になりました。それで、叙階式準備委員会は新潟教区初のユーチューブのライブ配信を計画してくださり、教会や修道院、家庭から多くの人がオンラインで式に参加し、心を合わせて祈ってくださいました。これは本当にありがたく、祈りが心に沁みました。しかし、実はそれだけでなく、青年の皆さんが協力してウェルカムビデオを作成し、叙階式の直後に上映してくれたのです。このビデオは青年たちが教区中の教会と修道会に呼びかけて実現したもので、それぞれの共同体が笑顔で「ようこそ!」と手を振っている場面をビデオ撮影し、それを繋げたものです。叙階式の直後、参加者の皆さんと一緒にこのビデオを通して人々の笑顔を見て、「ああ、自分は受け入れられているんだ」と、腹の底から感動し、涙が出そうになりました。その場にいなくても、会ったことがなくても、祈り合い、繋がり、心を揺さぶられることができる。思いを持って工夫を凝らせばいろんなことができると確認した時でした。

新潟教区で伝えていること

新潟教区は縦に長い教区です。一番北の鹿角教会から一番南の糸魚川教会まで車で行くと、休憩無しでも8時間ほどかかります。ですので、自然と活動は五つある地区ごとに行われることが多くなり、教区全体としての関わりが希薄になりがちです。こうした環境にあっては、教区全体で情報を共有するということが教区としての一体感を持つためにとても重要です。そのために前教区長の菊地功大司教様がブログやフェイスブックで頻繁に情報発信してこられましたので、新潟教区には司教や教区のウェブサイトやフェイスブックをチェックする方がたくさんおられます。私はこの良い習慣が途切れることがないようにと心がけ、発信しています。

私が教区のウェブサイトと個人のフェイスブックを利用して目指していることはたくさんありますが、特に大切にしているのは各小教区、修道院の顔が見える関係づくり、そしてどのような活動をどのように工夫して行っているのか伝え、学び合うための情報交換です。どこかの教会を訪問したら、なるべくその日のうちに記事を書いて教区のウェブサイトに上げ、フェイスブックで紹介するようにしています。文字も大切ですが、顔も大切なので、写真も必ず載せます。

相手を尊重する伝え方

新潟教区には、日本で生まれた方々、そして海外出身では、すでに何年も前から日本に定住しているフィリピン出身の方々と、技能実習生、学生として比較的最近日本に来られたヴェトナム出身の方が多くおられます。ヴェトナム出身の方で定住する方も少しずつ増えています。フィリピン出身の方は、ほとんどの方が日本語で話すことができますが、それでも英語の方がしっかり理解できる方が多いです。ヴェトナム出身の方は、日本に来た時期によって様々ですが、ゆっくり話す日本語はなんとか理解できる方が多くおられると認識しています。

私は、訪問先の教会で一人でも子どもがミサに参加している場合、説教の一部を子ども向けに話すようにしています。少しでも子どもたちに教会に親しみを持ってもらいたい。少しでも教会共同体の中で、「子供たちをわたしのところに来させなさい」と言われた、イエスの思いに満ちた雰囲気を育てていきたい。そう思っているからです。

ある教会を訪問した時、小学生の子どもが一人いたので、説教の途中、その子に向けてお話ししました。そうしたらその日の夜、ミサに参加していた、その日初めて会ったヴェトナム出身の青年からフェイスブックのメッセンジャーで「お説教、とても良かった!優しい声で言ってくれて本当にうれしかった!」というメッセージが届いたのです。子どもに向けて話すと、日本語があまり分からなくても理解できる、という当たり前のことに気づかされました。それからは子どもがいなくても、日本語が難しそうな人がいる場合、少しでも伝わる工夫をしてお話しするようにしています。

同じような思いで、フェイスブックでは日本語と英語の両方で発信するようにしています。多くの人が英語を理解できるということもありますが、日本人だけでなく、様々な背景を持った人々に向けて発信していますよ、という姿勢を示すためでもあります。また、最近はインターネットで翻訳をすることができますが、日本語よりも英語から翻訳した方がまともな訳が出てくるということも一つの理由です。

違いを大切に

私の司教としてのモットーは、「いつも ふくいんを ともに」です。それを表す紋章の中には、福音のシンボルである聖書とそれを掲げる二つの手が描かれています。二つの手はそれぞれ色が違い、それは背景の異なる人々、例えば人種、世代、性別、立場の違う人々がともに福音を生きることを表しています。

キリスト者は、自分が見たこと、伝えられたことを人に伝えていくという営みを繰り返してきました。イエスと共に留まり、十字架の死と復活を見た弟子たちはそれをユダヤ人にも、異邦人にも伝えました。弟子たちから福音を伝えられた人たちは、自分の人生の背景の中でメッセージを受け止め、自分なりに人に伝えていきました。そうやって福音はわたしたちまで伝わってきたのです。信仰は、自分と違う背景を持った人に伝え、分かち合うことによってより深められ、豊かになっていく。そう信じて、福音を伝えています

https://www.nagasaki.catholic.jp/cms/newspaper/kyouhou/202110.pdf