新潟教会 受難の主日

今日祝う受難の主日を持って聖週間が始まりました。受難の主日には、イエスのエルサレム入城と、主の受難という二つの出来事を、枝の行列と、受難の朗読という二つの特別な典礼によって記念します。イエスとともに、受難、そして復活へと続く道程を歩む決意を新たにしたいと思います。

また、来年の2025年はカトリック教会では聖年を祝います。教皇フランシスコは、今年は聖年の準備のために、祈りの一年にしましょうと次のように呼びかけられました。

個人的な生活の中で、教会生活の中で、世界の中で、祈りの素晴らしい価値と祈りの絶対的な必要性を再発見するための一年とするのです。

今年の聖週間を過ごすにあたり、ぜひ、一人でも、共同体でも、祈りを大切にしていただきたいと思います。

以下、説教です。

わたしたちはミサのはじめに行列をし、イエスのエルサレム入城を思い起こしました。イエスと弟子たちは歓喜のうちに迎えられます。しかし、それは、ローマ軍のような立派な行列でなく、とても質素な行列でした。そして、この行列は、王になるための歩みではなく、十字架の死に向けた歩みに続いていること、そしてそれは、わたしたちの救いのための歩みなのだということを、今日わたしたちは黙想します。

今日読まれたマルコによる福音では、エルサレム入城のすぐ前の時に、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」とイエスに願います。イエスは、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と答えます。弟子たちは、いよいよイエスがエルサレムに入り、王として活躍するときが近づいたのだと考えていたのでしょう。こうした発言に、他の弟子たちは腹を立てます。これに対するイエスの言葉は、「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか。」でした。

イエスとともにエルサレムに入るということは、イエスが飲む杯を飲み、イエスが受ける洗礼を受けることなのです。裏切られ、十字架を背負い、さらし者にされて惨めに死ぬ。にも関わらず、弟子の足を洗い、互いに仕え合い、愛し合うよう教えること。そして、苦しみ悶え、汗が血の滴るように落ち、「この杯をわたしから取りのけてください」と父である神に願いつつも、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ることです。

イエスは、マルコによる福音で、ヤコブとヨハネに「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか。」と言いながら、ゲッセマネの園では自分自身が「この杯をわたしから取りのけてください」「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と言われるのです。わたしはこの箇所を読むと、「ああ、本当に神の独り子はわたしたちと同じ人間となられたのだ」としみじみと感じます。人間としての苦しみ、嘆き、弱さに直面し、打ちのめされながら、それでも父である神に従って進んでいく。そうやって、同じく弱いわたしたちに、人として神に向かって生きていく姿勢について教えてくれているのです。

皆さん、この杯を飲みますか?この洗礼を受けますか?飾られた軍馬ではなく、ロバに乗り、軍勢ではなく漁師や徴税人の弟子たちと一緒に、ささやかにエルサレムに入っていくイエス。十字架に付けられ、惨めに死んでいくイエスとともに歩んでいきたいですか?

わたしは、イエスのエルサレム入城の場面を想像しながら、シノドスのことを思い出しました。これがシノドスのロゴですね。15人の様々な世代、役割、性別、状態の人たちが、みな同じ方向を向いて、ともに歩んでいます。誰かが先頭に立って引っ張っていくのではなく、聖霊に吹かれて、十字架をいただき、御聖体を掲げ、ともに歩んでいるように見えます。

キリストとともに歩む道は、実に厳しい道程です。途中で倒れたり、弟子たちのように逃げ出したりすることもあるでしょう。でも、イエスご自身がその厳しさを身をもって体験し、ともに歩んでくださいます。死の絶望や暗闇が、それで終わりではなく、復活の希望と光に続いていくことを示してくださいます。そして、歩みをともにする兄弟姉妹がここにも、隣町にも、世界中にいます。イエスの時代、ローマ帝国からの解放を望んでイエスをエルサレムに迎えた人々のように、ウクライナやミャンマー、パレスチナやイスラエル、その他多くの困難にある人々とともに、わたしたちはイエスに従って歩むのです。

受難の主日にあたり、キリストとともに、人々とともに歩む決意を新たに致しましょう。持ち帰るシュロの葉を見る度に、「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」というイエスの言葉を思いだし、自分自身の生活の中で受け止め、ともに歩みを進めて参りましょう。