聖木曜日 主の晩さんの夕べのミサ

新潟教会で司教司式の主の晩さん夕べのミサが行われました。御聖体と司祭職の制定と、兄弟愛の模範について特に記念するごミサです。主の愛を注がれたわたしたちが互いに奉仕しあい、また特に困難にある人々への奉仕によって神の愛を証していくことができますように。以下、説教の抜粋です。

今日の福音は次のように始まります。「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」

イエスは、ご自分の時が来たことを悟りました。十字架に付けられて殺されるときが来たこと。ユダに裏切られること。ユダだけでなく、ペトロも、他の弟子も、イエスを見捨てて逃げること。すべてを悟った上で、「愛して、この上なく愛し抜かれた」のです。

神の愛というのは、とてつもないものですね。自分を裏切り、見捨てるものを愛して、愛し抜く。その愛が、イエスが最後の晩餐で御聖体を制定し、司祭職を制定し、兄弟愛の模範を見せたことの根底にあるのです。

 

わたしたちは御聖体をいただく前に、「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。」と唱えます。キリストの現存というとてつもない神秘である御聖体を前にしてわたしたちは、ともすれば自分は御聖体をいただくのにふさわしくないと思ってしまうかもしれません。または、その逆に、毎週日曜日に御聖体をいただくことに慣れてしまっているかもしれません。

皆さん、初めて御聖体をいただいたときのことを覚えていますか?もし、子どもの時に初聖体を受けたのでしたら、きっとそのずっと前から、「あの白いものはどんな味がするんだろう」と思っていたでしょう。お母さんがもらう御聖体を取って食べようとしたこともあるでしょう。家でおやつに「あかちゃんせんべい」が出たときには、それをもってミサごっこをしたこともあるかもしれません。

わたしたちは、幼子のような心で、御聖体をいただきたいと思います。御聖体をいただくことに、いつも心を揺さぶられていたいと思います。イエスは、御聖体を前にして、恐れ多いと拝まれるために御聖体を制定したのではありません。

わたしの修練長、市瀬神父様は、安置されている聖体は、「わたしたちにたべられるために待っておられるキリスト」であり、わたしたちが聖体礼拝をするときは、拝領前の「神の子羊の食卓に招かれた人は幸い」という司祭の声に信徒が応えるその瞬間が続いている状態、と解説しています。

イエスは、ご自身をわたしたちに食べてもらいたいのです。食べることによって、わたしたちのうちに留まり、わたしたちもキリストのうちに留まり、父のうちに留まるようにしたいのです。このイエスの望みに、幼子の心で応えていけたらと思います。

さて、御聖体をいただくことによって、わたしたちはイエスの愛を受け、その愛を奉仕によって人々に伝えるよう、招かれています。イエスは弟子たちの足を洗います。その場にいた弟子たちがどれほど驚いたか、想像もできません。

イスラエルの砂漠で、きちんとした靴や靴下などない中歩き回っていた人々にとって、足は体の中で最も汚い部分のひとつでした。当時、足を洗い、きれいにするのは奴隷の役割だったそうです。それを、師であるイエスがされたのです。皆さん、もしイエスが現れて、自分の足を洗うと言われたらどのように応えますか。

わたしなんかの、しかも足などという汚いところを、イエス様が洗うなんて考えられないと思う人は多いでしょう。人は誰でも、自分の良いところは見せても、汚いところは隠しておきたいものです。その汚いところを、最も尊敬し、敬愛する人に洗ってもらうなど、できるはずがない、と思うのが普通だと思います。

ところが、イエスは、あなたの足を洗いたいんですね。あなたを清めたい。あなたに奉仕したいんです。しかも、困ったことに、イエスは、わたしの、あなたの、最も汚いところをわざわざ選んできれいにしてくださるんです。一番隠しておきたいところ、一番触れてほしくないところに入ってくるんです。神の愛というのは、きれいなところ、好きなところ、見栄えが良いところ、よくできることだけでなく、汚く、自分ですら嫌いな所、苦手なところ、すべてひっくるめて、そのまま大切にしてくださるものなのです。

わたしは足をきれいにしているから洗ってもらわなくても大丈夫です。と言う人もいるかもしれません。自分のことは自分でできるし、自分はいつもきちんとしている。汚くないし、悪いこともしていないです。イエス様、そういうわけで、結構です。

しかし、神の前に罪のない人などいません。司教も司祭も、信徒も、誰もがイエスに足を洗ってもらわなければなりません。何よりイエスは、すべての人、例外なくすべての人をご自分のもとへと招いておられるのです。イエスはペトロに言いました。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」

足はどうせまた汚くなりますから、結構です。という人もいるかもしれません。自分は弱い人間。どうせまた同じ罪を犯す。洗ってもらっても意味がない。そう考える人もいるかもしれません。

しかし、足を洗ってもらったペトロは、その後3度イエスのことを知らないと言います。ルカによる福音書によると、イエスはペトロが3度自分を知らないと言うことを予告したとき、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とペトロに告げました。ペトロは、自分が恐れのあまりイエスを3度知らないと言って鶏が鳴いたとき、激しく泣きました。きっと自分の弱さに絶望し、同時にイエスの励ましの言葉を、イエスの愛を思い出したでしょう。イエスは、復活して何度もペトロの前に現れ、そして聖霊が送られました。イエスは、一度だけでなく、何度でも足を洗ってくださるのです。

わたしたちは今日、二つのことをするよう招かれています。キリストの愛を受け入れること。そして、人々に愛をもって奉仕することです。どちらかだけというわけにはいきません。一方を抜きにして、他方をすることはできません。何をするにも自己責任で、人に迷惑をかけず、助けを求めることもはばかられるような日本社会にあって、わたしたちはしっかりと、堂々と、神の愛を受けましょう。そして、その愛に突き動かされ、人々に奉仕していきましょう。