復活の主日 日中のミサ・御復活メッセージ

皆様、主の御復活おめでとうございます。今年は、2023年度最後の日の御復活となりました。慌ただしい中にあっても、新しい年度に向けた恵みの時となったのではないでしょうか。皆様の新たな歩みの上に神の祝福を祈ります。以下、御復活メッセージと日中のミサの説教の抜粋です。

成井大介司教

今日の福音朗読は、ヨハネの福音の空の墓物語が読まれました。マグダラのマリアが朝早くに墓に行ったところ、イエスの遺体が見当たらず、それをペトロとヨハネに報告した場面です。マグダラのマリアはペトロに、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と告げます。今日の福音のすぐ後では、マグダラのマリアは墓の外に立って泣いています。そこにイエスが現れ、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを探しているのか。」と尋ねます。マリアはイエスを園丁だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が、あの方を引き取ります。」と言います。イエスが「マリア」というと、マリアの目が開き、それがイエスであることを悟ります。マグダラのマリアはイエスから弟子たちへの伝言を頼まれ、弟子たちの所へ行って告げます。「わたしは主を見ました」

復活というのは、社会の常識ではあり得ない出来事ですね。いのちの終着駅は死であって、死にいのちが打ち勝つというのは考えられないことです。永遠のいのちを生きるというのですから、なおさらです。しかも、目に見えないのにともにいるというのは、一体どうやって確認すればいいのか、と思う人も多いでしょう。

復活は、また死ぬ前の体を取り戻して生きるというようなものではありません。また、物理的、論理的に証明する資料を弟子たちがそろえてそれを聖書の中で提示しているわけでもありません。聖書の中で伝えられているのは、墓が空になったということと、弟子たちがイエスに出会って変えられていったということです。

弟子たちがイエスと出会った場面の記事を読むと、弟子たちの心の動きが伝わってきます。例えば今日の福音とその続きでは、ヨハネが「見て、信じた」ということ。そしてマグダラのマリアが泣いているところにイエスが現れたこと。

昨日読まれたマルコによる福音では、墓で婦人たちは天使に出会い、ひどく驚きます。そして、墓を出て、逃げ去りました。「震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」と書いてあります。

 聖書の中で、復活はその信憑性を証明するようなものではなく、経験するものなのですね。神秘の経験です。その経験の中で、弟子たちは、恐怖とか、驚きとか、喜びとか、うれしさとか、心が燃えているなど、心を揺さぶられたのです。

よく言われることですが、ある人について知っているのと、ある人を知っているのとでは全然違います。

例えば、わたしは大谷翔平選手について、ニュースを通していろいろなことを知っています。多分、数億人の人が大谷選手について知っていて、その人の解釈で様々なことを言います。でも、わたしも含めて、ほとんどの人が大谷選手を知りません。知っている人は、家族や友人など、ごくわずかな人たちです。

イエスについて、弟子たちは一緒に旅をして回り、多くのことを知りましたが、イエスがどのような方であるのか、理解はしていませんでした。御復活の体験、すなわち十字架上で死んだイエスが現れるという出来事は、なおさら理解できなかったでしょう。でも、復活という出来事を通して、イエスをより深く知ったのです。イエスをより深く信じた、と言うこともできるでしょう。驚きを通して。恐怖を通して。気まずさを通して。喜びを通して。イエスが、自分の目の前に現れて、自分とともにいる。自分を愛している。恐れるものなど何もない。そうやって、弟子たちはイエスご自身を知り、信じ、それを人々に伝えずにはいられないほど、心を動かされたのです。

わたしは先週の水曜日の朝5時頃、司教館の近くの海に行きました。復活のエピソードの中で、わたしが特に好きな場面が、ヨハネの福音書21章の弟子たちがガリラヤ湖で夜通し漁をしている場面で、ちょっと雰囲気を味わってみたかったんですね。

弟子たちが、閉じこもっていた家から出て、ガリラヤ湖で漁に出ます。一晩漁をしても何もとれなかったのですが、夜明け頃、イエスが岸に立って、「船の右側に網を打ちなさい」と言います。すると、網を引き上げられないほど多くの魚がかかり、その瞬間弟子たちは岸にいる人がイエスだと悟り、ペトロは湖に飛び込んでイエスの元へと泳いでいくのです。

イエスは岸で、火をおこして魚を焼き、パンも用意して待っていました。そして、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言います。弟子たちはイエスと、まるで何もなかったかのように朝ご飯を食べました。

弟子たちは、家に閉じこもっていたときは、イエスを見捨てたことを悔やみ、見つかって自分も殺されるのではないかと恐れ、イエスを失ったことに絶望していたことでしょう。

しかし、湖畔でイエスに声をかけられ、一緒に朝ご飯を食べたことで、本当にイエスが復活したんだ。あの、むごたらしい十字架上の死ですべてが終わったかのように思ったけど、確かに主は生きておられるんだ!漁をするとか、朝ご飯を食べるとか、毎日の当たり前の生活の中でイエスがともにおられるんだ!としみじみと感じていたのではないでしょうか。

皆さん、イエスは、何か特別なときにだけ、ともにいてくださるのではありません。日々の、何気ない生活の中で、ご飯を食べたり、旅をしたり、家にいたりするとき、ともにおられます。日常の中でイエスの生き方、イエスの思いを受け止めることで、より深くイエスを知り、信じ、わたしたちの生き方が福音的なものになっていきます。

日々の生活の中でイエスと出会い、驚き、戸惑い、喜び、心を揺さぶられましょう。イエスから影響を受けて生きていきましょう。

マグダラのマリアは、空の墓のことを、イエスに出会ったことを、弟子たちに伝えました。弟子たちは、広場に出て行って、人々に伝えました。ユダヤ人、ギリシア人、違う文化の人々に伝えていきました。今、わたしたちは様々な文化的背景を持った人々が、同じ信仰を持ってともに進む共同体として集まっています。わたしたちが、キリストによってつながった共同体、教会として、人々の間で福音を証し、社会をキリストの望まれるものにしていくことができますように。