今日は花園教会の公式訪問が行われました。新潟駅から徒歩10分と、新潟駅最寄りのカトリック教会です。
今日は9時から十字架称賛のミサが行われ、4名が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます!
ミサの後は、まずわたしの方から新潟教区の現況を説明し、変化する社会の中にあって、花園教会共同体が自分たちに合った仕方で宣教、典礼、愛の奉仕に取り組んでいくために、宣教司牧方針を活用して話し合いを進めてほしいと呼びかけました。それから意見交換を行いましたが、質問はむしろ、その後行われた茶話会でたくさん飛び出し、大変盛り上がりました。
茶話会の後は小教区評議会の皆さんと意見交換。お一人おひとりから、教会における役割や、普段からの思いなどお話しいただき、とても豊かな分かち合いの時間になりました。花園教会を含む、下越、中越地区では、昨年すべての教会で主任司祭が異動になりました。花園教会も坂本神父様が主任司祭として着任し、新体制で、取り組みを進めています。神の祝福と導きを祈っています。
いつも思うことですが、司教の公式訪問は、第三者を交えて教会の課題について分かち合うという意味で、教会共同体にとって、普段話さないようなことを話せる、大切な機会なのではないかと感じています。そのような時をご一緒できることに感謝いたします。
成井大介司教
以下、説教です。
皆さん。十字架を見て、どんなことを感じますか?
裸にされ、磔にされ、恥ずかしい格好でさらし者にされ、自分を守ってくれる人も、ものも何もない。もそんな、この世界でひとりぼっちで、最悪の状態で、今にも死にそうなほど弱っている。
それでも!それでも、大丈夫だよ。神様は、そんな、絶望的なときでも、たとえ死んでしまっても、私たちを救ってくださる。なにせ、イエス様は十字架につけられて殺されてから、三日目に復活されたんだから。
十字架は、パッと見ると、敗北、弱さ、恥ずかしさ、絶望、死のシンボルのように感じてしまいますが、実は、どんなに弱いときも、どんなに困っていても、どんなに絶望していても大丈夫!というシンボルなんですね。
イエス様は、神様であって、同時に人間です。父である神の独り子が、私たち人間を愛するあまり、人として生まれてきてくださった。私たちと同じ人生、ご飯を食べて美味しいと感じたり、人がいじめられているのを見て怒ったり、弟子たちと一緒に旅をして回り、喜んだり、そして、十字架にかかり、どうしようもない弱さに苦しみました。神様が、人間になってまで、十字架にかかってまで、私たちを愛してくださった、救いに招いてくださった、そういうことなんですね。
皆さん、辛いことがあって、いやな気持ちになった時とか、どうしていいかわからないとき、どうしますか?わたしはね、十字架の下に立って、じっと見上げます。何も考えず、十字架をじっと見つめます。そうすると、わたしは安心します。何でも大丈夫、という気持ちになります。問題が解決するわけじゃないけど、それでも大丈夫、という気持ちになります。
2011年、わたしは東日本大震災の支援活動をしていました。たくさんの人が津波で流されて、死んでしまった。あるとき、わたしはひとりのフィリピン人の方に会いに行きました。その人は、津波で旦那さんと、旦那さんのお父さんを亡くしました。子どもはいませんでした。この人は、日本で家族全員を亡くし、ひとりぼっちになってしまったのです。
わたしは本当に心配で、仮設住宅に住むその人を訪ね、話を聞きました。大丈夫ですか。足りないものはないですか。仕事はどうしますか。
その人は答えました。仮設住宅のみんなと仲良くやっているよ。ボランティアの人も優しいよ。仕事はないけど、大丈夫。神様いるから。
「大丈夫。神様いるから」。その言葉を聞いて、わたしは「ああ、この人は強いな」と思いました。すごいな、って思いました。これこそまさに、十字架の強さ、十字架の命、十字架の希望です。
皆さん、どうぞ、自分の心の中に、十字架の強さを持ってください。
辛いときには、聖堂や、自分の家にある十字架を見上げてください。
今日、これから四人の皆さんは堅信の秘跡を受けられますが、この秘跡によって聖霊を受けます。聖霊は、まさに私たちの弱さを通して、私たちを神の力強い命の恵みで満たしてくれます。どうか、安心して堅信を受け、聖霊の恵みを受け、イエス様のように人々のため、特に困っている人のために自分の力を使ってください。
さて、高齢者の皆さん、教皇レオ14世は、祖父母と高齢者のための世界祈願日のメッセージの中で、教皇フランシスコが亡くなる約1ヶ月前、入院中に語られたことを紹介しています。
「わたしたちのからだは弱いものですが、たとえそうであっても、何も、わたしたちが愛し、祈り、自分をささげ、信仰において互いに希望の輝くしるしとなることを妨げることはできません」(「『お告げの祈り』でのことば(2025年3月16日)」)。
どんなに体が弱くなっても、愛し、祈ることができる。信仰において互いに希望の輝くしるしとなることができる。そう教えています。
皆さん、十字架上のイエスは、その無力さ、弱さを隠すことなくさらけ出し、「渇く」と言って、飲み物を、他者からの支えを求めました(こちらを参照)。人は、成長し、能力を高め、力をつけ、人に頼らず生きることができるようになることで人間的に完成するのではなく、むしろ自分ではどうしようもない弱さを神と人に助けてもらうことで人間的に完成するのです。その意味で、高齢になるということは、まさに、神の前に成熟するためにとても大切なときだと言えるでしょう。
教皇フランシスコが、車椅子に乗って、人に車椅子を押してもらって、かすれる声で人々を祝福した姿は、まさにそのことを示しているように思います。
私たちも十字架上のイエスに倣い、車椅子の教皇フランシスコに倣い、愛を生き、祈りをささげ、信仰の希望を輝かせていきましょう。