秋田地区国際ミサ

昨日、秋田教会を会場に、4回目となった秋田地区国際ミサが行われました。今回、秋田教会では通常の日曜日の9:30のミサを行わず、11時からの国際ミサに参加するよう皆さんに呼びかけたそうです。秋田県全域、そして山形のいくつかの教会から、フィリピン、ベトナム、インドネシア、ベナン、フランス、イタリア、韓国、エジプト、ブラジル、日本などの信徒が約150名ほど集まり、聖堂はいっぱいになりました。ミサは朗読、共同祈願、聖歌などが様々な言語で行われ、説教はわたしが日本語と英語で行い、あらかじめベトナム語の説教原稿がパンフレットに印刷されました。奉献文の一部もポルトガル語やフィリピノ語で読まれ、主の祈りは日本語とベトナム語という、本当に多くの言葉が様々な国籍の信徒、修道者、司祭によって使われましたが、ちぐはぐな感じではなく、一体感を持ったミサとなったのは、きっと祈りのうちに一致する思いを皆が持っていたからではないでしょうか。ミサの終わりに、「こんにちは」とそれぞれの言語で何というのか学び、ミサの後皆が互いに挨拶しました。

ミサの後は交流会。テントを張り、日本、フィリピン、ベトナム料理がふるまわれ、楽しい交わりの時をゆっくりと過ごしました。ハイライトは聖心の布教姉妹会のシスターたちのダンス!子どもたちも一緒に踊って楽しんでいました。国際ミサというと、どうしても海外出身信徒が中心で、日本人信徒が少なくなる傾向がありますが、今年は日本人信徒の参加もとても多く、素晴らしい交わりの豊かさを感じる一日となりました。感謝。以下、説教です。

成井大介司教

今日の福音では、イエスがたとえ話を語られます。金持ちと、貧しいラザロのたとえ話です。金持ちは、目の前にある財産に満足して生きています。この金持ちは、自分の家の前にいる貧しいラザロのことを知っていたでしょうが、意識しなかったようです。やがて、貧しいラザロは死に、天使たちに寄り添われてアブラハムのもとに連れて行かれ、宴会に参加します。金持ちも死にますが、炎の中でもだえ苦しみます。

この、とても単純なたとえ話の中に、神が何を望んでおられるのかが示されています。どうして金持ちは死んでから炎の中に送り込まれたのでしょうか。それは、自分のためだけに財産を使っていたからです。

ここで大切なのは、財産を持っているか、いないかではありません。誰のために生きるか、ということです。人間は、自分のためとか、自分たちのためだけに生きるように造られていないのです。この世界は、人も、動物も、植物も、水も、空気も、光も、すべてがつながっていて、周りの存在から命の糧をいただき、周りに命を与える、命の恵みを繋いでいくことで回るように神によって造られているのです。科学的にも明らかですよね。

これを、自分の所でストップする生き方が広がっています。自分がたくさんもらって、周りには分けない生き方です。たくさん自然を壊し、たくさんのものを造り、たくさん買って、たくさん捨てる。自分の好きなようにものを買って、自分の周りや、自分とは違う国で困っている人がいても気にしない。もしくは、自分の国の人、自分の文化の人、自分と同じ考え方の人は支え合うけど、違う人は敵と見なし、攻められるかもしれないといって武器をたくさん用意する。殺し、土地を奪い、敵と見なす人々の力を無くすことで自分の安全を確保するという生き方。

今、私たちは「すべてのいのちを守るための月間」を過ごしています。特にこのとき、私たちは、互いの調和のうちにしか、この神の造られた世界は回っていかないのだということをしっかり受け止め、周りの人や自然を大切にして生きていきたいと思います。

さて、こうした被造物の関係、調和は、教会共同体においても同じことが言えます。教会は、人の集まりです。多くの教会で、みんな協力して典礼を行ったり、聖堂をきれいに掃除したりして、教会の中の活動を行っています。しかし、外との関係はどうでしょうか。「自分たち」とは違う人との関係はどうでしょうか。違う人から霊的にも、物質的にも生かされていることを意識しているでしょうか?違う人を、霊的にも、物質的にも生かす関係を造ろうとしているでしょうか?教会の外で、または中で、霊的、物質的に、ラザロのように苦しんでいる人に声をかけているでしょうか?

ただ一緒に祈るだけでは足りません。多文化共生という言葉がありますが、多くの場合、違う文化の人が同じ地域で生きているだけです。そこに交わりはほとんどありません。交わりというのは、相手のことを知り、それによって自分が変化し、ともに成長していくということです。皆さん、ぜひ、「相手が大切にしていることを知って、それを一緒に大切にしていく」という交わりを実践してください。いつも言うことですが、私たちは皆外国人です。ベトナムの人は日本人にとって外国人ですが、ベトナムの人にとって日本人は外国人です。お互いに外国人です。それぞれ、大切にしていることがあります。お互いが、お互いに、大切にしていることを分かち合い、ともに大切にしていってください。神様の前で、私たちは皆、一つの家族なのですから。

さて、今日私たちは、「世界難民移住移動者の日」を祝っています。この日のために教皇レオ14世はメッセージを出されましたが、その中で「移住者は希望の宣教者」だとし、次のように語っています。

とくにカトリック信者の移住者と難民は、彼らを受け入れる国において、現代の希望の宣教者となることができます。……実際、彼らは、その霊的な熱意と活力によって、硬直化し、不活発になった教会共同体を活性化することに貢献できます。……それゆえ、カトリック信者の移住者と難民の存在は、真の意味での神の祝福として認識され、評価されなければなりません。それは、新たな力と希望をご自身の教会に与える、神の恵みに心を開く機会です。

新しい文化の信仰が入ってくるということは、神の祝福です。皆さん、新潟教区は恵まれていますね。こんなにたくさんの、移住者の皆さん、神の祝福が与えられています。繰り返しますが、日本人も外国人ですから、私たちが互いに交わるとき、お互いに、違う文化の中に入っていこうとするとき、私たちすべての人が神の祝福となります。祝福された共同体となります。

私たちの模範は、いつでもイエスです。イエスは、神であったのに人となられました。国と国の間を超えるどころか、神と人の間を超えて、私たちと交わり、命を与え、ともにいてくださいます。イエスは、弟子たちと旅をして回り、外国にも行き、特に貧しい人、人々から嫌われる人を大切にされました。

どうか、私たちが、イエスに倣う共同体として、交わりのうちに歩むことができますように。自分に与えられたものを自分のためだけに使うのではなく、すべての人、特にラザロのような人々のために使う共同体でありますように。