性虐待被害者のための祈りと償いの日

新潟教区では、先週の日曜日か金曜日、または今日、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」のミサが捧げられました。

私は今日、新潟教会の9:30のミサを司式し、小教区共同体の皆様とともに祈りを捧げさせていただきました。拝領祈願の後には、新潟教区ハラスメント防止宣言を参列者全員で読みました。これからも引き続き、教会共同体として意識を高めて行けたらと思います。以下、説教の原稿です。


四旬節は恵みの時だと言われます。自分の弱さから目を背けず、しっかりと向き合う。すると、神が、本当に、私の弱く、汚く、自分自身ですら見たくないような側面までも含めて、ありのままの私をそのまま受け止め、愛してくださっていることがよくわかります。
逆に、自分の弱さを見つめない人は、神がどれほど自分を愛してくださっているかと言うことを少ししか感じることができません。
この四旬節にしっかりと自分を見つめ、回心し、神の愛を受け止めていけたらと思います。

教皇は今年の四旬節メッセージの中で、「復活祭へと向かう四旬節の道を歩みながら、わたしたちは「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であったかたを思い起こします。」と述べ、わたしたちを回心に招いています。わたしたちは、個人として、また教会全体として、イエスがわたしたちに示してくださった福音的な生き方に従順であったのか、四旬節の道のりの中で振り返っていきましょう。

今日の第一朗読では十戒が与えられる場面が読まれました。十戒は、神の助けによってエジプトから脱出した民が、神の導きに相応しく生きるための掟です。神を真ん中に置いた、とてもシンプルな生き方が示されています。福音の中で、イエスは神殿で商売をしていた人たちを追い出します。エルサレムの神殿は、ユダヤの人々にとってこの世界で最も聖なる場所です。それを、当時、いくら礼拝には生け贄とする動物や、ユダヤの通貨への両替が必要だったとは言えども、「父の家を商売の家としてはならない」のだとイエスは戒めます。そして人々は、イエスの不思議なしるしには大変興味を持っていましたが、イエスが示した神の愛にはまるで気がつきませんでした。

神は、人々を愛し、救いに招くために、歴史を通じて様々な形で人間に働きかけられました。十戒という律法を通して契約を結ぶことによって。そして、ご自分の独り子を人として遣わし、直接愛を示すことによって。しかし人間は、実に度々神に逆らい、救いの計画から自らそれていきます。今日の福音はこうした人間の過ち、人間の愚かさをわたしたちに示しています。

神の愛を生き、その愛を伝えていく役割を担う教会も、例外ではありません。教会もまた、過ちを犯す不完全な存在です。わたしたちは謙虚にその過ちを認める勇気を持ち、誤った行いを正していかなければなりません。特に、「子供たちを私のところに来させなさい。」と言って、神が小さな子どもたちを大切にし、愛しておられることを示されたにも関わらず、キリスト者、しかも聖職者が子どもたちを性的に虐待するなどと言うことは、絶対にあってはならないことです。

教皇フランシスコは度々、教会全体がこの問題に真剣に取り組むよう呼びかけてこられました。教皇は2019年5月7日に出した使徒的書簡の中で次のように述べています。「性的虐待という犯罪は、主に対して逆らうことであり、被害者に対して肉体的、精神的、霊的な傷を与えるものであり、また信徒の共同体を傷つけるものです」。まさに、この犯罪は、神に逆らい、被害者に深く、何年経っても消えることのない傷を付け、教会共同体全体を傷つけるものです。カトリック教会の聖職者が性的虐待を行ったこと、またその犯罪を隠し、適切な対応を取らなかったことによって被害を拡大させたこと、そして教会という組織が、被害に遭った人の声に耳を傾けなかったことに関して、主と、被害者の方々と、教会共同体の皆様に心よりお詫びいたします。

日本の教会は、これまで司教協議会に子どもと女性の権利擁護のためのデスクを設置し、ガイドラインやマニュアルを作成し、様々な研修や啓発活動を行い、再発防止に取り組んできました。現在司教団は、新しくバチカンから出された要項に沿って、ガイドラインの改定作業を進めています。

新潟教区においては、対応窓口と委員会が設置され、研修を行うなど取り組みを進めています。そして、私は教区のハラスメント対応委員会に諮った上で、昨年菊地大司教様が出されたカトリック新潟教区ハラスメント防止宣言を改訂し、教区全体として、こうした問題が起こらないように協力のうちに取り組んでいくよう呼びかけました。後ほどこの宣言を皆様と一緒に読み上げたいと思います。

今日の第2朗読で使徒パウロは言います。「わたしたちは、十字架に付けられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召されたものには、神の力、神の知恵であるキリストを述べ伝えているのです。」

十字架は、敗北、弱さ、辱め、絶望、闇、死をイメージさせますが、わたしたちキリスト者にとっては勝利、強さ、栄光、希望、光、力と知恵、復活のいのちそして神の愛のしるしです。

この回心の時にあって、わたしたちも洗礼を受けた時の心を思い出し、キリストの十字架に死と、復活のいのちにあずかる恵みに感謝したいと思います。そして、このいのちの恵みを、他の人々、とくに小さく、弱い人々のいのちを守るために、また神の愛を伝えるために使っていくことができますよう、神の導きを願いましょう。